そろそろ終わりたいと思いながら続きます。
さて話をスサノオ尊に戻します。スサノオの尊は高天原の御殿でウンチ、田圃の畦を破壊、斑馬の皮を剥いで稚日女尊が自害等々の罪を犯してます。ここまだは日本神話に詳しい人なら誰だって判るはずです。
でも、まだあるんです。二つも。どうです、わかりますか。
先ず一つ目。、母親のイザナミ尊が恋しくてヒゲがボーボーに伸びても泣き続けた事があげられます。何時までも死んだ者の事を悔やんでも仕方がない。きっぱり踏ん切りをつけろと言う事です、多分。
うーん、考えさせられますね。これは私も罪を犯している事になりますし。うーん、中々難しいことだと思いますが亡くなった者は記憶の中で大切にしまって、早く一歩を踏み出せと言う事だと思います。私は一歩踏み出したのか、自分でも分かりませんけど。
そして二つ目。スサノオ尊はイザナミ尊を追って黄泉の国に旅立つ決意をします。これも罪です。これ、人間に当て嵌めると「後追い自殺はするな」、「殉死するな」と言う事なのでしょう。
さて、そろそろ総括と行きますかね。まず、スサノオ尊は悪神なのか。天照大神は「汝のような悪神を信じられるか」的な事言ってますので悪神だと言えます。罪も犯していますからね。
でも、記紀に登場する神々は少なからず罪を犯しています。なんせ天津神には天津罪、国津神には国津罪があります。日本の神は罪を犯すものなのです。何で罪を犯すのか。
日本の神々が犯した罪って、全部人間が犯しうる罪なんです。つまり神は人間の鏡。人間の罪を代わりに背負うのが神。人間の罪を背負い祓い清めるのが日本の神の特徴と言えます。
例えば国津罪ですが、ズバリ近親相姦です。イザナギ尊・イザナミ尊も兄妹で結婚した訳ですから近親婚です。結果どうなったかはお判りですね。イザナミ尊は加具土神を産んで火傷をして死亡。黄泉の国行って夫のイザナギ尊を争うこととなります。愛し合っていたのに別れたのです。
手名稚尊・足名稚尊も同様です。8人の娘のうち奇稲田姫を除いて八岐大蛇に生贄になっています。娘を7人も失ったのです。これらの例は近親相姦の罪を犯しその罰を受け事になります。
天津罪は一言で言うと自然破壊でしょうか。神道は本来、自然信仰・祖先信仰です。山を開き稲田を造る。これは自然破壊です。そして山の先住者は蛇です。つまり蛇は地主神であり祖先です。その蛇を殺す行為は天津罪となります。
スサノオ尊は斑馬と稚日女尊を殺した。これは先住の神を殺した。強いては蛇を殺したと言えると思います。スサノオ尊は天津神だから天津罪を犯した。その罪で髯を抜かれ、爪を剥がされ、高天原から追放。流離の苦しみを受けてます。
これらは全て人間が犯す罪。否、人間が犯した罪です。その罪を神々が人間に代わって演じる。実行する。これは人間の罪を神が被る。これは或る意味、善なる神の行為であると私は思うのです。
イエス・キリストは説教をする神??です。人々に神を語り、神の審判の到来を説きます。そしてエクソシスト的癒しで人々の病気を治癒した。同じエクソシストであるユダヤ教のラビ達から嫉妬され、無実の罪を着せられ十字架につけられます。
この話は「熊野の本地・五衰殿」で書きましたが、五衰殿のストーリーと酷似してます。しかし五衰殿は仏教と密教の流れを汲んでます。神道とは根本が違う。神道の仏教的解釈と言えます。
日本の神々とイエス・キリストは人間の罪を背負うとこまでは同じですが、説教ではなく行動で示す。この点が違います。私は説教では誤解を生むと考えます。間違って訳される事もあります。だから違う解釈となり争いを生むのだと考えます。
その点、行動で示した日本の神々は誤解される事が少ないと言えます。故に古代の日本は争いが少なかったと私は考えます。
以上の理由から神道とキリスト教は違うと思います。そして私はキリスト教よりも神道に優位性を感じます。この考えは多分、死ぬまで変わらないだろうと思ってます。
ではでは。