諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

末期癌患者が死を受け入れるまでの心情。その2

2020年06月22日 00時11分54秒 | 人生
続きです。

否認、怒り、取引、抑鬱、受容。

人間、誰だって死ぬ。私もボンヤリしながら人生の半分は過ぎた。死が近付いているのは分かっている。太っているし、糖尿病だから後20年生けれれば御の字だろう。

実際、死に際を何度もシュミレーションしている。全身麻酔や梯子からの落下で、死ぬ瞬間のイメージも想定している。ある程度の死ぬ準備は出来ている。

18年前、戦国武将を祀る神社の石段で丑三つ時に、ハッキリ、クッキリと幽霊も見た。2メートル以内の距離で。

霊の存在は確認している。自分も死んだら幽霊になる可能性も理解出来た。未練を残せば幽霊に成ると確信している。

でも、死んで幽霊に成るのは、どんなもんだろう。幽霊に成って恨めしいと想いながら草葉の影に立っている。それは辛いわなぁー。

死ぬんだったらゼロで良い。何も残らなくても良い。否、無になるのも怖いか。うーん。

否認、怒り、取引、抑鬱、受容の中で、怒り、抑鬱、受容の3つを行ったり来たりしている感じ。それが今の自分の感覚。答えが出ないのに考え続けている。無駄な事をしているのだろうなぁー。

ただ、一つ言える事は余命宣告を受けていないから、受動的に死を考えてはいない事。

「そうか、死ぬのか。仕方ないや」となれば、私も死を否認もするだろうし、神との取引もするだろう。こんな私でも生に未練が無いと言えば嘘になる。やはりこの受動的死の五段階は、大筋合っているのではないかと思える。

うーん、色々書きたい事があるのだけれど、このテーマは難しい。考えが幾通りも出て来る。どれが正しいのか全然分からん。

態と仏教的観点を無視して自分の考えで答えを出そうとしているのだが、まだ考えが練れてない。

私の親は両親共80代だが、全然死に付いて考えていないと思える。100歳まで生きれると考えているみたいだ。逆に私の方が死に付いて考えが深いと思う。

死に付いて考える。私の歳ではまだ無謀なのかなぁー。

だからこそ死者の意見が聞きたいと思っているのだが、今思うと、あの時の幽霊に「死とはどう言うものなのでしょう」と聞いておけば良かったかなぁー。

幽霊が死に付いて答えてくれたなら、スッキリするなぁー。こんなに悩む事も無かった。失敗したかなぁー。

バイクがパンクした時、幽霊と対峙した戦国武将を祀る神社にバイクを置いて来たけど、もう丑三つ時には行きたくない。神社は丑三つ時には行くべきではない。やっぱり自分で考えるしかないか。

死の瞬間までに答えが出せれば良いけれど、こればっかりは、どうしようもないなぁー。


ではでは。


コメント (28)
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