今回のお題は中々の問題発言だと思います。お題だけで判断せず、全てお読みになってご判断いただければ幸いです。
さて、今から50年前、私はいわき市の好間町から仙台の肴町、今の大町へ引っ越して参りました。
隣は贈答用の「笹かまぼこ」を乗せる竹細工の器の工場だった。その家には18~20歳前後の知的障害者がいた。砂嵐のテレビ画面に顔を近づけて洟や茹れを垂らし、「ウッー、ウッー」と唸っていた。
気の毒だった。本人よりも家族が。家族の皆が泣いている感じがした。彼を恥じている感じがした。
その後、コスト削減でかまぼこメーカーは竹細工の器からプラスチック製に変更。その主人は失業し、一時期、私の家で働いていた事があります。その主人が大泣きしていたのを未だに覚えています。
私もそんな知的障害者を養っていたとしたら、自殺したくなります。神を恨みます。私がブログを書いているのも神に対し、理不尽・不条理を感じている面もあります。
私がそんな知的障害者であったなら生は望まない。意思は無いだろうが、家族に迷惑をかけたくない。家族の為に死にたいと思う。
それで長年想っていたのだが、自分の意思が発せられない者は死後、どの様になってしまうのだろうか。
自分の死が分からずに死ぬ。幽霊になる。「うらめしや~」とも言えない。ウッー、ウッーと唸るだけ。
恨みも未練も感じていない。生も死も分からない。それだったら幽霊にも成れないのではないか。
死んで霊魂となる。でも物事の判断能力が無い。そう言う者が死んで霊魂になって、どんな意味があるのだろうか。
霊になっても自分が分からない。苦しみ、恨み、悔やみさえ理解出来ない。そうなったら、どうなのだろう。
こんな事、長年考えてきたのであります。
そして私が38歳の時。某有名戦国武将を祀る神社で丑三つ時に幽霊と遭遇。その幽霊は正気を失った表情をしていた。それで何となく思った。何故、幽霊になるのかが。
それは自分の死を理解していないから。理解する能力が無いから。
アルツハイマー&パーキンソン病の男と対峙した時もそう感じだ。
彼は自分の幻想を現実として疑わなかった。全てにおいて自分は正しい。隣の部屋の者が包丁を持って壁を突き抜けて襲って来たと言い放った。現実が分かっていなかった。
現実が分からないままで死ぬ。当然、自分が死んだのも理解出来ない。だから成仏出来ず、幽霊のまま彷徨うのではないのか。
っと言う事は、死ぬのだったらボケる前に死ぬべきではないのか.。ボケてから死んでは遅いのではないか。
死んだら20歳前後のシャキーンとした感覚に戻る。そして霊として永遠と成る。それなら良いのだけれど、そうじゃなかったら。ボケた状態のままだったら。
悪い奴は悪い奴のまま。鈍くさい性格はどんくさいまま。意地悪な性格もそのまま。ボケてしまったら、ボケたまま霊として永遠に成ってしまうのではないか。
そう考えたら、若い内に死んだ方が良いのかも知れない。
私だって56歳。20歳の時よりはボケている。ボケた状態で霊となるのって、死んでから苦労するのではないか。損ではないのか。
はぁー、こんな事考えて生きて来たのだから、生きる意欲が湧かないのも当然か。気力が湧かないのも、欲が無いのも当然か。
案外、これが無我の境地だったりして。どうなのだろ。分かんないなぁー。
もしかして若くして自殺した者の中には、この想いに取り付かれて死を選んだ者もいるかも知れん。死んでから得をしようと思って。
うーん、馬鹿げた考えかな。馬鹿げた考えなのだろうな。
でも、少なくても私は自分の死を認識・納得して死にたい。そこに大きな意味がある。そんな感じがする。
其れは今のところ、間違っていない様な気がする。
ではでは。