諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井直勝の戒名「大雄院殿永井月丹大居士」を考える。

2021年09月26日 04時40分37秒 | 永井直勝
まぁーね、こんな御題を考える暇人は世界で私くらいなもんだと思います。

さて、永井直勝です。歴史通じゃないと知らないと思います。私的には戦国時代、最強、最知、最美、最清、そして最哀の武将だと勝手に思っておりやす。

その理由は以前、チョットだけ書きましたが今回は省きます。長くなりますので。

永井直勝の戒名が何故「大雄院殿永井月丹大居士」と付けられたのだけ考えます。

永井直勝の戒名を「大雄院殿永井月丹大居士」と名付けたのは、永井直勝の菩提寺である茨城県古河市にある曹洞宗・永井寺(えいせいじ)の当時の住職だと思います。

ここで問題なのは当然「大雄」と「月丹」です。

「大居士」の戒名はお金さえ出せば誰だって付けられます。第一、菩提寺が永井寺なのです。永井直勝の墓があり、永井直勝が開基したので永井寺なのです。永井直勝が大居士と名乗れるのは当然でしょう。

永井寺は山号を龍渓山、院号を大雄院、寺号は永井寺。

因みに山号の「龍渓山」ですが、永井直勝の生まれ故郷、愛知県知多郡に同じ山号の「龍渓山 洞雲院」があります。曹洞宗の寺院です。多分、そこから取ったものだと考えられます。

さて、先ずは「大雄」は何を意味するのか。

永井直勝は下総古河藩7万2千石の藩主まで上り詰めたのですから、そりゃ大雄院です。最初の主君である松平信康が家康に自害を命じられ出奔しなければ、30万石は堅かったと思います。

そして小牧長久手の戦いで、左人差し指を落とされながらも敵将・池田恒興を討ち取った。英雄です。大雄院でしょう。

更には大坂冬の陣の時、制止する部下を振り解き、「我は家康公の目である」と叫び、燃え盛る大阪城に単身乗り込み、豊臣秀頼の自決をしかと見届け無事帰還しています。見事な働きです。大雄院です。

他に大雄院と付けられた理由。

直勝は1563~1625年を生きた。戦国時代のど真ん中を生きた。

この時代、並の男は女を愛す。男の中の男は男を愛す時代です。そして永井直勝は美少年だった。大浜から岡崎まて踊り歩く風流踊りで、ひときわ輝く美少年ぶりが松平信康の目に止まり、信康の小姓となった。

信康自害の後は信康の父・徳川家康の近習になっている。これは家康・信康親子との男色を疑われます。そうなると永井直勝はオカマとの噂が立ちます。

それでなくても美男子に目が無い同僚の安藤直次は井伊直政同様、永井直勝が好きで好きで堪らなくて悶え苦しんでいたらしいです。当時の美少年は男の中の男であるゲイに狙われるのです。

でも直勝はゲイでもオカマではではない。断じて違う。

オカマなら池田恒興を討てる訳がない。その意味合いからオカマを否定する為にも大雄院なのだと私は考えます。

次に「月丹」。月丹とは赤い月です。何で赤月を戒名にしたのか。

小牧長久手の戦いで池田恒興を討った場面を描いた屏風絵には、直勝は赤っぽい衣装に緑っぽい鎧を纏っています。

そして菩提寺の永井寺には渋い赤と言うか、茶色がかった赤い衣装を着た直勝の肖像画が残されている。どちらも赤い月の色。その事から考えると直勝は赤い色が好きだったのではないか。

そして直勝は何時も家康の隣にいた。家康が太陽なら直勝は月。

ただの月ではない。赤い月。赤は戦いの色。直勝の武勇と学識・知略は徳川家でも有数。直勝は家康のボディガード兼影の軍師??だった。だから赤い月、月丹と付けられたのではないか。

そしてこれが一番正解だと思うのだが、下総古河には「将門や 古河の月夜を 赤く染め」と言う句がある。

「平将門公が赤い生首の様な月となって、古河を守っているぞ」と言う意味らしい。

平将門公と永井直勝は同じ桓武平氏の家系です。下総古河は直勝にとっては先祖の土地。直勝もまた赤い月となって将門公同様、古河の土地を守る。その意味合いで「大雄院殿永井月丹大居士」との戒名が付けられたのではないか。

そこでふと思ったのです。平将門公と桔梗との間に産まれたとされる永井平九郎。もしかしたら平将門公と永井直勝の古河での関係が親子として進化し物語が生まれ、永井平九郎が登場したのではないか。

まっ、これは証明のしようが無いです。私としては永井平九郎は実在の人物であって欲しいですが。


ではでは。














コメント (11)
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