続きです。
さて、ここで少々、残夢に付いて語ります。ウキペディアのまんま写しですが。
先ず、兎に角、奇行に富む人物である。永禄年代、つまり1558年~1570年の間に関東に現れた。常陸の福泉寺、会津の実相寺で住職??をしていた。
食事をしなくても飢える事は無く、貧しい人には自分の服を脱いで与えた。
磐城の僧・夢々と「なしなしといふはいつはりきてみれば・・・」、「なしなしといふもことはりわがすがたあるこそなし・・・・」と旧知の仲の如く、訳が分からないう詩を歌い合った。
源平の軍記を見て来たように語った事から、常陸坊海尊ではないかと噂された。
1576年に139歳で亡くなったらしい。etc。
ここで疑問なのは徳川家にやって来た残夢とは同一人物なのかどうかです。南光坊天海や林羅山とも話をしたと伝わっていますが、林羅山は1583年に生まれ、1657年に亡くなっている。つまり林羅山が生まれる前に残夢は亡くなっているのです。出会える訳が無い。
139歳で亡くなった。案外、知られていないのですが、「天寿を全うする」と天寿は128歳です。人間、何も問題が無ければ128歳まで生きられると言う事ですが、それを超える139歳って流石に信じられない。どうなっているのでしょ。泉重千代みたいに初代、二代目とを合わせた年齢なのかも知れません。
因みに残夢の長生きの秘訣ですが、クコの実を好んで食べていたそうです。その話を直に聞いた南光坊天海もクコの実を食べて108歳の長寿だった。弟子の永田徳本に至っては118歳まで生きたとされている。この長寿は何を意味しているのか。
残夢を常陸坊海尊とした場合、永田徳本、南光坊天海と共通点があります。それは熊野です。
常陸坊海尊と南光坊天海は天台宗です。そしてその修行の地は熊野三山。
永田徳本の実家は知多郡大浜の藩主であり、熊野神社の神官の家系であります。神道ではありますが、やはり熊野なのです。
この三人、熊野三山での修行で面識があった可能性がある。
南光坊天海はその後、生まれ故郷の会津美里町に帰った。残夢も会津の実相寺に移った。
永田徳本の場合、山形の出羽に移り住んだ。出羽は同じ家系の長井氏の領地。その関係で出羽なのかも知れない。
そして会津でも天台宗の信仰が深い。やはりこの三人は熊野で繋がっているのは間違いないでしょう。
この残夢ですが、その後、伊達藩に現れ、伊達政宗に面会し、源平合戦の詳細を語ったそうです。その時の名は「清悦」。やはり政宗らにも常陸坊海尊と疑われた。
そして岩切・青麻神社裏の岩窟に移り、清悦仙人として過ごした。青麻神社では常陸坊海尊として祀られた。
青麻神社は太陽、月、星の三光信仰の総本山なのですが、その名の通り麻の栽培が行われていた様です。
麻は麻薬です。不眠やストレスに効果があるのですが、幻覚症状も発する。その効能が祓い清めの神事に使われていた。大麻、小麻と言うハタキ形状の神具で人々を祓い清める。
修験道も大麻を燃やしての神事を行う。大麻は究極の薬草である。
うーん、しどろもどろに鳴ってまいりましたが、人の最大の望みは西洋東洋を問わず不老不死です。長寿です。それを信仰の目的にしている面が多くの宗教に見られます。
そんな事から常陸坊海尊は信仰の指標として祭り上げられた。修験道の優位性の広告塔。そんな感じで東北を中心に常陸坊海尊の伝説が広まっいるでしょうから。
お涙頂戴の義経の話をすれば、耳を傾ける人もいるでしょうから。
ではでは。