前回、「常陸坊海尊が食べて不老不死(長寿??)となったニンカンとは何か」と題してブログを書きました。実は話途中で中断し、無理やり終了してしまったのです。新たな疑問が浮かんだので。
常陸坊海尊と思われる人物が江戸時代に現れた。名を残夢と言う。義経主従に付いて詳しく語った。それで生き延びた常陸坊海尊なのではないかと疑われた。本人もそれを否定しなかった。
それでもしやと思い検索したらヒットしました。私の家系に繋がる永田徳本の師が残夢禅師と言う事実が。
この残夢は突然徳川将軍家を尋ねて来た訳はありません。誰かが招いた筈です。それが出来るのは徳川家康の隣に何時もいた永井直勝で間違いないでしょう。何たって直勝の叔父は永田徳本なので。
永井直勝は元々、長田伝八郎直勝と名乗っておりました。
しかし、長田姓は源氏の統領で源頼朝・義経兄弟の父である源義朝を風呂場で騙し討ちにした長田忠敬に繋がる。
源氏姓を主張する家康としては長田は不吉な姓である。それで鎌倉の大江氏に入る形で長田直勝を右近太夫大江直勝と名乗らされた。大江系永井流と称して永井直勝となったのです。
それに伴い直勝の親族は永井姓を名乗る様になる。父親の長田重元はそのまま長田姓を通したが、弟の徳本はその中間を取り永田姓を名乗ったのだと思われます。
永田徳本は謎の人物です。
知多半島の実家を離れ、山形周辺で修験者をしていた。それが突如として漢方医学を習得した。武田信虎・信玄の典医となった。そこまでの経緯が謎。
兄の長田重元は知多半島大浜の藩主で有り熊野神社の神職だったのです。何故、その弟が山形まで出向いて修験者になったのか。
当時の山形は会津に含まれます。そして南光坊天海は会津出身。やはり修験者をしていた。その天海.は何故に徳川家に付いたのか。
これは南光坊天海→永田徳本→永井直勝→徳川家康のルートで繫がっているからではないのか。
この永田徳本ですが、現在の葡萄栽培法を考案したした方です。甲州ワインを漢方薬??として用いていた。
武田家を離れてからは牛の背に揺られて日本中を旅した。分け隔てなく治療した。そして治療代は十六文、もしくは十八文以上受け取らなかった。徳川秀忠を治療した時も代金は受け取らない。正しく医聖でした。
この永田徳本に師事したのは林羅山。医学を教えていただきたいと来たが、「お主は医学の道よりも徳川家に仕えよ」と諭した。多分、甥の永井直勝を通して徳川家に仕えたのだと思われる。
その証拠に永井直勝の菩提寺・永井寺には林羅山が直勝を偲んでの碑が存在する。二人に親交があったのは間違いない。共に家康のブレーンだったと思われる。
続く。