諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

かかりつけの床屋マスターとの会話。その3

2024年07月27日 21時59分28秒 | 人生
続くんです。

私は「父上はお元気なのですか」とマスターに聞いた。嫁に先に行かれるのは夫として辛いと思って。

マスターは「父は私が二十歳の時に亡くなっています」と。

若くして亡くなっていたのか。マスターもマスターの母親も大変苦労したのだろうなぁー。

マスターは続けざまに「私は7人兄弟の末っ子なのですが、上の3人の兄や姉は若くして亡くなっています。従兄も海で遭難し、遺体も上がっいないです」と。

「えっ、そんな過去があったのか。私よりも辛い人生じゃないか」。私はそう思い言葉を失った。

そこまでの辛い人生を歩めば、宗教に縋りたくなる。学会員は優しい人が多いし、母子で勧誘されたのだろう。

マスターの実家は北東北の漁港で漁師をしている。っと言うことは、もしかしたら海難事故で親兄弟、従兄を亡くしたのか。

その点については流石に聞けなかった。現在は兄一人、姉が二人で兄は漁師を続けて母親を面倒見ていた。一人暮らしの生活だったら、暫くは気が付かれない。その点は良かったか。

「飲むなら焼酎、死ぬなら卒中」と言うが、膵臓癌の疑いがあり、誤嚥性肺炎で瘦せこけて亡くなった私の父よりは良い死に方なのか。

私は父の姿を思い出し、「コロナで3か月間親族に逢えず苦しんで亡くなるよりは、自殺した方がマシかも知れない」と言ったら、マスターは「どんなに苦しくても自殺は絶対に良くない」と、今までよりも強い口調で返答。それって学会の教えなのだろうか。

学会は日蓮宗がベースだ。日蓮宗は仏教の宗派の中で一番スピリチュアル色が強い。

日蓮に紅龍の姿で現れた七面天女の話は、私から見たら矛盾点が多い。存在しない龍で信者を獲得しようとする魂胆が見える。私は軽蔑している。

その日蓮宗と袂を別けた学会では、自殺は厳禁なのだろうか。

日蓮宗であっても仏教に変わりはないが、釈迦は自殺を肯定している。

釈迦の発言で弟子たちは集団自殺をした。悟りを開いた弟子も悟りの境地を続けるのが困難となり自殺した。釈迦はそれを修行の場を涅槃に移しただけだとのたまった。

だったら最初から仏教なんて信じるべきではないし、今だったら釈迦は自殺教唆の罪で逮捕だ。私は釈迦がいい加減な奴にしか思えない。

っと頭に浮かんだが、流石にマスターにはその話はしなかった。母親を亡くしたばかりなのだ。余計なことは考えさせない方が良い。

私は話を変えて、「10数日前、お店にバイクでくる途中、鬱が深まり過呼吸となって引き返した」話をした。

マスターは「過呼吸は辛いですよね。私も母を亡くしてから閉店後、髪の毛の掃除をしている時に過呼吸になりました。凄く辛くて、今ではお客さんの髪をを切り終えたら、その時、その時ですぐに掃除して、時間になったらさっさと帰っています」と言った。

それだけマスターにとって母親は大切な存在だったのだろう。更に彼には家庭がある。その点は私よりも幸せなのかも知れない。

でも、マスターの母は夫を若くして亡くしている。3人の子供も亡くしている。辛い人生だったと思うなぁー。それでも生きなきゃならないのかなぁー。

生きるセオリー、人生のセオリーって人それぞれ。他人には通用しても自分には通用しないケースが殆ど。だから生きるのは大変なのだ。

マスターの母親は悲劇のシナリオを立派に演じきって亡くなった。

人生を演じ切る。それが一番大切な事なのかも知れないなぁー。今の私にはとてもそんな自信は無いが。



ではでは。




コメント (14)
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