続きます。
松平信康に話を戻します。
信康が自害したのは1579年10月5日。信長が亡くなった本能寺の変は1582年6月2日。たった2年8か月の差です。もっと早めに信長が討たれていたとしたら、信康も自決することは無かった。信康も付いていなかった。
信康が家康の後継者となっていたら、武田の赤揃えは井伊直政では無くて永井直勝が率いていたなっていた可能性があります。武田側とのパイプ役は直勝だってのですから。
井伊直政と永井直勝とでは武勇でも知略でも直政は、直勝に遠く及びません。直勝にとっても付いていない。本来は徳川家の最大の軍団を率いる武将になっていた筈です。
でも、家康は武将ではなく軍師としての直勝に期待していた節があります。
家康の愛読書は鎌倉時代の吾妻鏡です。源頼朝、北条政子、そして北条義時を自分の立場に当て嵌めていたと思うのです。
上杉征伐の時、石田三成が兵を挙げた。その時に「豊臣方に人質を取られている武将は、豊臣方に付いても構わない」と家康は言い放った。
これは北条政子の大演説と同様の事を言ったまでです。
北条政子は「上皇側は鎌倉に兵を進めている。上皇に歯向かえば我々は賊軍となる。家族が上皇側に仕えている者もいるだろう。ここにいる者達は朝廷に戻って上皇に付も良し。でも私は何時までも西方に従う意思はない。私は朝廷側と戦う決意をしました」と、己を鼓舞して鎌倉武士に語っています。
北条政子も北条家の為に子を失った。子を殺した。
家康も信康を自害させた。同じ境遇だから北条政子の檄文を真似て発言したと思えます。
この檄文は北条家の軍師と言える大江広元が作成したのは間違いないでしょう。
そう、家康は自分にとっての大江広元を欲していた。
そこで白矢を当てたのが永井直勝だったと思われます。
永井直勝の本当の名は長田伝八郎直勝。
家康は「長田姓は源義朝を討った長田忠致の姓故に不吉。故に大江流長井氏を名乗れ」と直勝に命じています。それで正式名・永井伝八郎大江直勝を名乗る様になったのです。
この事実からも直勝に自分にとっての大江広元になって欲しいと、直勝に期待したのだと思えます。
さて、石川数正が秀吉側に付いた。そうなると徳川方の戦略が丸分かりとなる。臣下の礼を取ったとしても徳川方としてはそれは不味い。
故に家康は自軍の戦略を武田の戦略に変えている。そうなるとやはり武田方に精通している直勝が陰で指揮していたと考えられる。
石川数正を手に入れた秀吉だが、徳川にはまだ優れた軍師がいると秀吉は感づいた。
武田の戦略に精通している者は誰か。秀吉はそう石川数正に問うたと思う。そして数正は答えた筈だ。永井直勝の名前を。
豊臣秀吉は確信した筈だ。徳川家の軍師は永井直勝であると。
続く。
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