続きです。
考えてみれば永井直勝は元々、松平信康の家臣。それが徳川家を分かつ争いが起きて、信康は家康に自決を命じられた。言わば直勝は敵将に仕えているのである。家康の婿となる自分とは立場が似ている。徳川家で永井直勝を見る目はいかほどであろうか。
永井直勝はどんな気分で家康に仕えているのであろうか。自分は直勝の様に家康を義父として慕う事は出来るであろうか。
否、蔑まれ続けるだろう。そして永井直勝も蔑みの目で見られている筈。よく耐えられるものだ。
そこで池田輝政は永井直勝に聞いた。「貴公の知行はいかほどか」と。
直勝は「5000石でございます」。
輝政は嘆息して語った。「我が父・恒興の首がたったの5000石とは。徳川殿には安く見られたものだなぁー」と。
これは家康に対する批判ではない。永井直勝に対する徳川家臣団に対する擁護と言える。
直勝は見栄えが良い。それで家康の傍にいられる。それを嫉妬する者もいるだろう。直勝は家康と敵対していた信康の小姓だったのである。嫉妬の感情は生まれて当然。
それを父・恒興の首が5000石とは低過ぎると輝政は言い放った。それで徳川家臣団の嫉妬を和らげたと言える。
永井直勝は池田輝政に討たれる覚悟と、その可能性は判断していたと思う。だから死装束を纏ったのは確かだが、それだけが理由ではない。
直勝は漆黒で飾りが少ない鎧のデザインからも、目立ちたがらない性格だと判断出来る。それでも派手好きの伊達政宗を真似て死装束で池田輝政に対峙した。
それは豊臣秀吉の自分に対する殺意の返答だと私には思える。
実は秀吉は池田輝政にも豊臣姓を贈っている。直勝も豊臣姓を頂戴している。秀吉は輝政同様、直勝も同待遇で迎えると暗に語っているのである。それを袖にされた。だったら死んで貰うしかない。
それに対する返答が死装束。「秀吉よ、貴公の魂胆は全て承知しているぞ」。その意思表示が死装束だと思える。伊達政宗も豊臣秀吉に対する死装束だったので。
池田輝政は決心した。これからは豊臣家と決別すると。
秀吉は老いた。かつての秀吉ではない。
家康の婿に自分を据える。自分の心情など全然考えていない。池田恒興の息子の自分を家康の婿にする。自分に対する配慮が足りない。
それは自分は豊臣姓を賜ったとしても、自分は秀吉にとってただの駒だから。例え直勝を討って生きて豊臣家に戻されても、秀吉の駒として生き続ける。そんな人生は真っ平だ。
「永井直勝と同じ道を歩もう。徳川家に誠心誠意仕えよう」。そう輝政は心に決めたと思えます。
事実、家康の次女・督姫との間には五男二女を儲けた。夫婦仲も円満だった。
督姫も武家の習いとは言え、人生を翻弄されて生きてきた。自分と同じだ。そう督姫に同情し、仲睦まじく過ごしたと思えます。
続く。
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