諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井直勝の最初の妻・百合姫自害の真相を考察する。その3

2019年03月12日 06時35分32秒 | 永井直勝
すみません。ちょっとタイトルを変えてしまいました。それだけ悩んでいます。悩みながら続きます。

百合姫が亡くなった時の年齢は不明ですが、直勝は当時21歳前後ですから、それに近い歳であると思われます。その若さで病で亡くなったとは考え難い。

百合姫が不義をして自害した。これが本当かどうかなど分かりませんが、もし本当なら相手は誰なのか。

多分それが事実なら相手は殺されているでしょうけど、私が永井直勝なら百合姫にも自分にも恥な話なので、不義の話は隠蔽すると思います。

でもそれで病死と発表した。だか時既に遅し。全てが露見してしまった。だから二つの話が伝わっているのかも知れないです。

不義の死であるなら、永井家の墓にも実家の墓にも遺骨は収められず、塚に埋葬されたのも分かります。

でも百合姫塚は不思議なことに祠なのです。

永井直勝は熊野神道の家系。だから祠に百合姫を埋葬した。神として祀った。それは何故か。

直勝は自分の屋敷の敷地に池田恒興の首を御神体にして、池田神社を建立しています。それは少なからず祟りを抑えたいとの考えが有ります。百合姫塚もやはり祟りを考えて祠で祀った。

そう考えると百合姫に何かを押し付けた。その後ろめたさが有るから、祠で祀ったと考えられます。永井家は祟りに大変敏感な家柄ですから。

不義では無く何か別の理由があるとした場合、それは一体何なのか。

切欠は年代で考えますと、やはり小牧長久手の戦いでの直勝の手柄にあると考えられます。

それが百合姫には許せなかったとしたら・・・・・・・。

百合姫の実家は大河内家。大河内秀綱の妹。徳川家康の実母である於大の方の家系です。直勝と同じ知多半島の出身と成ります。

ここで問題となるのは大河内家は家康と同じ源氏の流れにある事。そうなると永井直勝の家系である長田忠敬をどう見ていたかが気になる。長田忠敬も知多半島が出身地ですし。

長田忠敬は平家。当時は平家と源氏は仲が良かった。そして長田忠興は源義朝の側近である鎌田政清に娘を嫁がせた。

その後、源氏と平家は争う様になる。源氏が負ける。源義朝と鎌田政清は長田忠敬の屋敷に身を寄せる。

長田忠敬にとって源義朝を匿うのは御家存亡の危機。いづれ平家に見つかる。匿っていたことがばれたら長田家も滅ぼされる。それで武勇に優れる源義朝を風呂場で討った。婿の鎌田政清は宴会中に討った。その行為は卑劣極まりない。

鎌田政清の妻である長田忠敬の娘はそれを知り、家を恥じて川に身を投げて自害している。
そんな卑劣な長田家に百合姫は嫁入りなどしたくなかった。大河内は源氏の家系なので。だから同じ知多半島で対立していた時代があったと思われる。

多分、直勝と百合姫の縁を取り持ったのは徳川家康でしょう。直勝は家康の小姓でしたから。

しかしながら源氏の頭領である源義朝を討った長田家に、源氏の家系である百合姫が嫁入りする。それは彼女にとって断腸の想いがあった。

自分は大河内秀綱の妹。大河内家は家康の母である於大の方が出ている名門。それなのに何で武家として穢れている格下の長田家に、何で私が嫁入りしなければならないのか。

百合姫は長田家を、直勝を蔑んでいた。

源義朝を討った平家である長田家に嫁入りする。こんな屈辱は無い。卑しい最低の武家である長田家に命とは言え嫁入りする。これは死ぬよりも辛かったのでは。

直勝は小牧長久手の戦いで敵の総大将であった池田恒興を討った。池田恒興の清和源氏の家系。また源氏の流れの大将を討った。正々堂々と。それで東端城の城主となった。殿様となった。直勝は出世した。卑しい直勝が自分よりも上の立場になった。それが許せなかった。

実は直勝が長田姓から永井姓に改姓したのは、小牧長久手の戦いの前との説があります。そこの所難しいのですが、私は百合姫の死が切欠に成った可能性が高いと思います。落ちぶれたと言え、長田氏は平家の名門の家系でしたし。

百合姫は自害した。直勝が出世したのに自害した。そこまで長田姓を名乗るのが嫌だった。

それが理由であるなら、直勝も永井姓に改姓するのも納得します。そして多くの長田氏も永井姓に改姓した。長田姓は汚名。百合姫の自害でそれが身につまされたのではないか。

家康としても百合姫は親戚に当たります。その百合姫が自害した。そうなると長田姓の改姓を命じるのも当然と思いますね。

以上なのですが、うーん、考えの練が全然足りません。これでは納得出来ない。でも伝承が残っていないので、今の所、この考えが自分としては一番納得が良く思ってはいるのですけど。

百合姫塚は祠です。神道で祀っていると考えられます。それは永井家に祟りを及ぼさない為であると私は考えます。

百合姫は祟りを起こすほど長田家・永井家を恨んでいる。これだけは間違いない。そう考えるとこの考えしか思い浮かびません。大変残念ながら。


ではでは。








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6 コメント

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Unknown (りひと)
2019-03-12 07:39:31
とっても面白かったです。
意味ありそうですね。於大の方との関係があるとなると家康の方でもかなり面白くなりますね。

祠での供養というのもポイントなんですね。けどそれやれる一族って限られてますし、他じゃ出来ないはず。
なんか乃木坂というか瀬織津というか百合姫のイメージが少し見えてきましたよ。百合なんですよ、怒ると怖いんですよ。出来るのは永井直勝なら出来るんですよね。これって綱永井さんに直結しているミステリーですよね。

そうそうこの前突然用事で鎌倉行ってきました。でいつもは通らない所まで行ってみたら大江さんの邸宅跡だとか天神さん(道真)とかお寺とか。熊野もやたら地図で出てましたよ。そういう土地柄なのでたまたまタイミングですけど百合姫って鎌倉とも関係しないかな?
低い土地で薬師的な要素のお水とか木とか観音とかいっぱいキーワードは揃ってますね。
私は適度な距離を持つ白山が関わっているようにも思いますね。女性はプライドもある系統です。
そこを踏み台にした可能性はあるように思いますね。
ある場所で出会った神社は、熊野と白山でした。
黒と白で境界があるのかなぁ?
因みにこの前伊豆山でさまよったんですけどあの時も白山は私は行けなかったんですよ。普通の人なら普通に行けるのに。

女系と男系の派閥争いのようにも思います。男系が女系の重要性を認識してきたらちょっと変化しないかな?甘いですかね。出来るのはおそらくお寺的な事も出来る永井さんでしょうね。

あと鎌倉時代は源氏と平氏が仲良かったと聞いて安心しましたよ。そうなんです、持ちつ持たれつだったはず。誰が争わせたのか?ちょい興味ありますね。
家康の周りもかなりその後で関係してきそうですよ。
鎌倉って東照宮ってないのかな?あってもおかしくないんですけど、本物がいたから出来ないとか?
於大さんでも見えてくるように思いますね、文京区行きたくなってきましたよ。
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後白河法皇。 (綱永井寵生)
2019-03-12 21:43:27
りひとさんへ

源氏と平家を仲違いさせたのは、日本一の大天狗・後白河法皇です。勿論、権威と権力を握りたかった両家にも問題が有りますが。

最初の勝者はである平家は貴族になり、武家を蔑んだ。[平家にあらずんは人にあらず」で反感を買い、今度は源氏に滅ぼされた。そして最後は共に滅んだ。

両家とも使い捨ての道具の様なものです。哀れです。

於大の方を調べれば、また違った答えが出てくると思います。

於大の方は政略にりよ結婚と離縁を繰り返した。百合姫も自分もそうなるのではないかと、ぼんやりとした不安が死へと導いたのかも知れません。
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Unknown (木方)
2021-05-07 09:46:51
仙台にも東照宮ありますね。
それから鎌倉には東照宮はないですけど、確か頼朝が建てた平等院みたいな所に薬師堂があったようにも思います。今は残ってないんだったかな?残念ですよね。
なんだか歴史の中では自分から消えてしまう方が多いんですがそういう方ほど消えていなければと思う事が多いです。どうしてたら消えないようになるか?消える方が良いといたたまれなくなるような環境を周りが改善する事しかないですよね。永井さんも理解ある方だったとも思うので百合姫情報いっぱい出てくると当時の環境が分かり見えてくる事があるかもしれませんし、その手法によっては現代でもまやかしを解く方法にもなりそうですよね。話せば分かる方には選んで、話した方が良いことがあるでのでしょう。情報戦や噂や風評で後悔した方の関係もで会う事が多く、その後の行動でも見えてくる事は歴史の中でもあるかと思います。
当時の方はそれを修正する機会がすでに終わっているならば今修正出来る時間がある者しか出来ない事がありそうに思います。それが出来たら色々と面倒な事も起こらなくなるのかと無理だとは思いますが、あがいてみたいですね。
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幽霊。 (綱永井寵生)
2021-05-07 13:16:12
木方さんへ

その東照宮で幽霊と対峙しました。2メートル以内の距離ですから、見間違いではありません。この幽霊で私の考え方が変わりました。

歴史から消えるのは、それだけ恨まれているからだと思います。

「気を静め 言うべきことを控えつつ 人の心 破るべからず」。

「人の為 良かれと思う心こそ 我が身の為と なるはほどなし」。

これは永井直勝の教訓歌ですが、もっと若い頃からそれを心掛けていれば、もっと違った人生だったと思います。

永井直勝はその手で池田恒興を討った。10代前に源義朝を殺した長田忠敬がいる。人に恨まれる人生を送っていた筈だが、永井家は徳川時代の最後まで続いた。

それも直勝の教訓が伝えられていたからだと思えます。
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Unknown (木方)
2021-05-09 11:21:57
教訓歌て素敵ですね。家訓とか社訓とかもまさに失敗した歴史から反省し学んだ結果を少なくても自分に関わる方への愛情の時代を超えた財産のように思います。
永井さん立派でしたね。

そして消えた理由の一つに恨みもあるのかあ、それはちゃんと考えていなかった事かもしれません。嫉妬だけじゃない恨みだともう一つ作業するが必要にもなりますね。今日夢で気になっていた方が出てきて普通に過ごせているのが自然でびっくりしましたが、相手がある事ゆえに相手の気持ちがスムーズに動かないとおそらくそうならないのだとも思いました。そうすると単純に消えた歴史を単純に復活させる事は危険の始まりでまた消えた者が自然と自分から意思表示出来る事に努める事の方が大事に思いました。神では一人そう思って距離とっている方はいます、ただ出てこないといけないとは思いながら距離はキープしてますが少し人間を介して接点は持てましたがそれ以上は流れに任せようと思っています。
だからこそ口は慎むべき事なのでしょうね。
違う五感で感じて人の事よりも自分の事をコツコツやるしかないとは確かにコロナで思う所。物理的にも行けないし、期限決めたってコロナがあったら行けないし、出来レースが実現出来る可能性のが少ない。そう思うと徒党を組まず一人行動でならば危険も物理的には少なくなるのでしょうね。自由もある、これからはこの自由がどうなるのか?ここのコメントも昔のように入れられなくなったりまた戻っちゃったと思い久々にびっくりしました。

逆に自分には全く得しない事をし続けるのはすべき事の基準として優先度を考えてやるようにしたいとは思います。だって歴史の中では正義の基準も変化しまくりでそれこそ風任せじゃないと生きていけない時代があったならば死んでいる可能性がある方が生きて社会貢献出来る時代にするためにはどんな方も苦しまない基準に正義を持っていくしかないはずで、その事でもれなく自分も入れるわけで生きていける可能性が高くなります。人財不足って色んな所で困らないはずなんですよ、自分たちで過酷な状況を作らないようにしたいですよね。引きずる事と繰り返す事、過去は教訓としてドボンしないように気持ちを変えられる事も大事です。でその実益はお金じゃなく人の縁だと思うと過去の引きずりや繰り返しも前提条件にはなるはず。そう思うと過酷な運命も前提条件と受け容れられた時に本来なら大事な消えた方々が中心に自動的に出てくるのでしょう。
そう思うと傍観だけでも楽しいですよね。
子供たちも注意して直させたとしてもそれはその時だけでそれ以外の所で持続はしない物、本人たちがこうすると自分も他の人もみんなが安全ってそれぞれが思った結果は凄い事になります。コロナ対策でも今までの日本の良さを潰す事で悪化しないといいですよ。出歩かないようにするなら人間の生理を考えてトイレや手洗い出来ないならば危険だと思うし、家にも帰るし。感染者の体験が分かれば自分からそこに行く人がいるか?白血球が頼りの自分もインド型が今までよりも危険なのが分かるし、それがワクチンで効くのか?正しい情報が知りたいです。救急車で出発出来ない経験や入院決まったらそこから家に戻れない経験を端でしていない人が多いんならそれを知らせる人が増えるといいのですが。
歴史的に見たら相当実務能力ある方へたどり着くまでに時間と手間がかかるはず、それを黙って淡々と改革してくれている各地の方々に注目したいですよね。パワハラや治外法権や不平等条約が命の観点基準で間違っているのはその時代の方も理解していたしそれで良しと思える権力者がいたら自分から行動変えてくれるといいですが、教訓歌が無いならば作って欲しいですよ。
何事も決められる方が自分で決めないと、それで失敗したから関係者には失敗しないように愛情での教訓歌作るわけですからね。私も今歌に癒されています。
返信する
池田輝政。 (綱永井寵生)
2021-05-09 14:39:47
木方さんへ

永井直勝はラッキーな人生を歩んだと言われますが、上記の教訓を守って成功したと思えます。

小牧長久手の戦いで左人差し指を落とされながら池田恒興を討ちましたが、彼は神として池田恒興を敷地内に祀った。池田神社を建立した。恒興の鎧を寝所に飾り、恒興を敬った。

時代は巡り、徳川家康の婿として池田恒興の子である池田輝政が徳川家に入った。当然、父を討った永井直勝に会いたいと願う。

徳川の家臣は直勝が輝政に殺されるのではないかと危惧した。

直勝と輝政は対面し、直勝は恒興の最後を語った。

輝政は最後に直勝の石高を聞く。5000石と聞いて、「父の首が5000石とは」と嘆いたらしいですが、それは直勝の人柄に感じ入ったからだと思います。

事実、殺した者をこれほどまでに敬っている。だから呪いや恨みを受けなかった。簡単に出来る事では無いと思います。

人は誰しも誰かに恨まれています。私を恨んでいる者もいっぱいいるし、私も人を恨んでいます。直勝の教訓を知っていたら、また違った人生だと思います。

直勝は武将で徳川家の家臣。人との関係は切れませんが、その教訓は人と接しなければ私でも成立します。

凡人はそうするしかないのだと思えます。
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