諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

日本のど真ん中に鎮座する鬼渡神。その8

2024年03月09日 16時52分45秒 | 神道
続きます。

先にも述べましたが、塩竃神社の祭神として主祭神・塩土老翁、配神として鹿島神・香取神が設定されたのは、1700年代後半です。

それが明治時代に入り古文書が発見された。塩竃の一森山に鎮座していた社が、岩切に打ち捨てられていた。その捨てられた社に祀られていた神は「志波彦神」だった。

どうして社が岩切に捨てられていたのか。

それは蝦夷であるモレの一族が建立した社だったから。

敵である蝦夷の神を祀る社です。燃やしたり破壊すると祟りが怖い。でも朝廷が支配している多賀城や塩竃に残したままには出来ない。

これは仙台人でも知る人は少ないですが、蝦夷の時代、仙台市周辺で一番栄えた場所は今の岩切がある七北田川沿いだった。だから岩切に持って行ったと思われます。

元々は日本史上ぶっちぎり一位の祭祀料を献上されていた神社の神なのです。祟りが恐ろしい。

当時の塩竃神社の宮司は明治天皇に「天下の一大事」と願い出て、塩竃神社と共に志波彦神社も現在の一森山に建立しています。当然、神格は志波彦神社の方が上です。元々の塩竃神社には志波彦神が祀られていたのですから。

この志波彦神ですが、古事記や日本書記には出て来ません。私的には正式な名前を隠したと推測しています。

塩竃神社側では塩土老翁に塩竃の国造りに協力した神としています。

私的にはちょっとニュアンスは違うと思います。100%間違いではありませんが・・・・。

さて、志波彦神とは誰なのか。

大日本地名辞書を編纂した吉田東伍は「志波彦神は阿須波神である」と断言しています。私も同じ意見です。

理由ですが、千葉県・茨城県の熟蝦夷達は旅立ちの神である、阿須波神を信仰していた。

阿須波神は旅の安全を守る神。

しかしその旅は、福島県・宮城県・岩手県の荒蝦夷との戦いに従軍する旅。そうなると阿須波神は武神としても信仰される。

荒蝦夷達も阿須波神を信仰していた。

だが、戦っている相手の熟蝦夷も阿須波神を信仰している。その点も荒蝦夷の長であるアテルイ・モレが田村麻呂率いる朝廷軍に降伏した理由の一つだと考えます。

志波彦神が阿須波神であるとしたら、阿須波神は敵の神でもあった。だから岩切に社が打ち捨てられていた。

荒蝦夷と戦った朝廷軍の熟蝦夷達も阿須波神を信仰していたのですから、塩竃神社側の説明には間違いは無いです。

でも、真実を追求したい私としては、やはり矛盾を感じてしまいます。


続く。





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日本のど真ん中に鎮座する鬼渡神。その7

2024年03月06日 20時03分59秒 | 神道
えっー、何時もながらタイトルから逸脱した記事を書いていますが、私の書いていることは仮説です。

以前、事実と信じて市役所や神社まで訪ねて討論した人がたいので、何時もタイトルを暈して書いているのです。

これを言っちゃお終いですが、キリスト教の真実を知っている牧師や神父なんて居ませんし、仏教の真実を知っている僧侶もいません。神道を知る神職も居ないのです。

彼らは神や仏だけを信じている。宗教で得た権力を死守したいと思っている。その感情は忘れてはならない。それを忘れたら真実の神には近づけない。

私は歴史背景や伝承。国の権力者による宗教の歪曲。宗教者による他宗教へ宗の憎悪と、自身が信じる宗教の誇張。

そして他宗教への攻撃や貶め等々を考えて書いています。其れでしか宗教の真実には近づけない。それが私の考えです。

それでは続きます。

伊達家四代。伊達綱村の塩竃神社の祭神研究チームは、塩竃神社の主祭神を塩土老翁に認定しました。

私、最初から疑問でした。塩竃神社だから塩土老翁。塩繋がりて塩土老翁に認定したのだと推測しますが、「塩竃」は「竃」なのです。だったら竃神の奥津彦命・奥津姫命じゃないとおかしい。

塩竃は塩水を煮出す釜です。そうなると海の側で使用していた筈。一森山の頂上で塩を煮出して造っていた筈がない。海が近い塩竃で山の上に塩竃神社があるのはおかしい。

っと言いたいところですが、分かっていた筈です、古代の人達は。塩竃に津波が何度も襲っていたことを。だから一森山に塩竃神社を建立させた事は十分考えられる。

実は塩竃市の由来となる塩竃がご神体の御釜神社が、海に近い塩竃市の平地に鎮座しています。ご神体は四口の塩竃です。この場で塩造りされていた可能性は十分あります。

3.11の東日本大震災は塩釜の街を襲っています。

津波は塩竃神社の鳥居まで来ています。当然、御釜神社も津波に襲われたと思ったのですが、この御鍋神社の四口の塩竃には、津波は届きませんでした。

否、津波は四口の塩竃を避けたと言った方が正解です。周りは津波に襲われましたから。

つまり御釜神社を建立した人は、その地は津波が避けて通る事を知っていたのは間違いないでしょう。

私の考えですが、塩竃神社は最初は別の場所に有ったと思います。

伝承では花淵浜の鼻節神社(はなぶしじんじゃ)下の海辺で塩を造っていたとの話が伝わっています。祭神は猿田彦尊です。

その鼻節神社から東へ7キロの松島の海底に大根神社が鎮座しています。大根神社の「大根」から祭神は猿田彦尊と考えて様でしょう。

そして大根神社の海上では船による藻塩の神事が行われる。

つまり、松島は古代の地震と津波により陥没して出来た。その証拠として鼻節神社の表参道は崖から始まっている。その崖は松島が陥没して出来たからです。

「大根」とは「男性器」の事です。猿田彦尊のデカい鼻は、男性器を示していると考えられます。幸神信仰です。

日本最古の宗教は性器信仰です。性器は境界線でもある。

そうなると塩竃神社にも鬼渡神の性格が感じられるのです。


続く。






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日本のど真ん中に鎮座する鬼渡神。その6

2024年03月03日 22時36分39秒 | 神道
続きます。

荒蝦夷(あらえみし)対熟蝦夷(にぎえみし)との戦い。

これに躊躇したのは荒蝦夷側のアテルイ・モレ連合軍です。同じ蝦夷同士で戦う事は出来ない。蝦夷は決して仲間同士では争わない。

しかし、坂上田村麻呂は熟蝦夷に命じた。「兵士だけではなく女老人子供であっても殺せ。皆殺しにせよ」と。

更に坂上田村麻呂軍は専門兵士です。アテルイ・モレ軍の様に半農兵士ではない。農閑期だけ戦う訳ではない。

田村麻呂軍は農作期や収穫期に関係なしに戦える。

これではアテルイ・モレ軍は降伏するしかない。そしてアテルイ・モレら500人の荒蝦夷兵は、平城京まで連れていかれ処刑されています。

坂上田村麻呂は東北を侵略した首謀者です。そしてもう一人、東北を侵略した者がいる。源頼朝です。

頼朝は自分の行為を正当化させる為に、坂上田村麻呂を神格化した。

だから田村麻呂は東北で悪鬼を退治した英雄に祭り上げられましたが、こんなの大嘘です。田村麻呂はアテルイの子孫たちとも戦ていますからね。

ここで疑問なのが田村麻呂に信仰された鬼渡神です。鬼渡神は田村麻呂の夢枕に現れて、「山でも川でも海でも直ちに渡行く故、鬼渡神と申す」と自己紹介しています。

そして田村麻呂は、私の故郷、福島県いわき市三和町に鎮座する旧・鬼渡神社と呼ばれた、永井神社を建立したと伝えられていますが、これはもしかしたら源氏によるものかも知れないです。

ちょっと寄り道しちゃいました。阿須波神に話を戻します。

千葉県、茨城県辺りに住んでいた熟蝦夷兵は、旅立ちの神である阿須波神に旅の無事と、戦での勝利を願って奥州に旅立って行った。多賀城を自分達の拠点とした。

仙台や多賀城、塩竃、七ヶ浜を領地としていた荒蝦夷は盛多賀嶋ことモレの一族だった。モレ一族の信仰の地は現在の塩竃神社が鎮座する一森山だった。その頂上にモレ一族が信仰していた神を祀る社が存在した。

820年。塩竃神社の祭祀料は10000束でした。出雲大社や伊勢神宮の祭祀料が3000束です。とんでもない多額な祭祀料です。それなのに塩竃神社に祀られる神は不明になっていた。

そこで1700年代、伊達家四代の伊達綱村は研究チームを結成し、塩竃神社に祀られる神を塩土老翁、鹿島神・建御雷神、香取神・経津主神に設定しました。


続く。










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日本のど真ん中に鎮座する鬼渡神。その5

2024年03月01日 22時58分47秒 | 神道
続きます。

香取神宮、鹿島神宮の要石に抑えられている鯰の正体は誰なのか。

私は鬼渡神である阿須波神で間違いないと考えています。

その理由ですが、鹿島神宮では「鹿島立(かしまだち)」なる言葉が有ります。その意味は「出発。門の事。鹿島、香取の明神が天孫族の先使いをされたと言う故事から出た」とされています。

この意味ですが、表向きは合っていると思います。

先に申しあげましたが、香取神宮、鹿島神宮の場所は縄文時代、一番人口が集中していた場所です。そして蝦夷の土地でもあった。茨城県の「茨城」は蝦夷である佐伯氏の城を示している。

蝦夷は天孫族である天皇を中心とする朝廷に支配され、兵士として使われていた。

先に紹介した万葉集の防人の歌である「庭中の阿須波の神に小柴刺し 吾は斎はむ 帰り来までに」の歌は、蝦夷が防人として朝廷軍に従軍した歌と言えます。

だから「鹿島立」はその地の蝦夷達が、防人として旅立ったと言うのが真意だと考えます。

では、何故、鹿島明神、香取明神が旅立ったとされるのか。

それは鹿島神、香取神共に天孫族の武神だからです。朝廷としてはこのニ神の武神は守り神です。だから敵地に鹿島神、香取神が旅立ったとしているのでしょう。

でも真実は違う。蝦夷達の信仰している神は防人の歌通り、蝦夷の神である阿須波神を信仰していた。阿須波神を信仰している蝦夷兵が旅立って行った。

事実、「鹿島立」で旅立って行った神は阿須波神であるとする伝承があります。

この伝承を証明するのは陸前一之宮、志波彦神社・塩竃神社です。

これ、地元の宮城県人も知らない人が多いのですが、塩竃神社よりも志波彦神社の方が神格が上です。だから正式名称では志波彦神社が先となるのです。

これも先に述べましたが、縄文時代、仙台市、多賀城市、塩竃市周辺は二番目の人口を有しています。勿論、蝦夷の拠点です。

桓武天皇時代、宮城県の涌谷町で日本で初めて金が産出された。桓武天皇は金を欲した。奈良の大仏に金箔を塗る為です。

だから宮城県に朝廷は兵を送った。勿論、金を蝦夷から強奪する為です。

しかし、地元の英雄であるアテルイ、モレは激しく対抗した。朝廷軍を何度も退けた。

そのアテルイ、モレの軍で対抗する為に中国系の坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された。

坂上田麻呂は中国系。人の命を軽んじている。悪意に満ちた人間と言える。

何と田村麻呂は千葉県、茨城県周辺の蝦夷を兵とした。彼ら蝦夷は朝廷に準じた為に熟蝦夷と呼ばれる。

その反対にアテルイ、モレは蝦夷は、朝廷に最後まで対抗した為に荒蝦夷と呼ばれます。

つまり、田村麻呂軍とアテルイ・モレ連合軍は、蝦夷対蝦夷の戦いでもありました。


続く。






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