平成30年1月21日
沖縄戦描く創作劇に出演した美作大2年 宮城幸恵さん(20)
伝える重みかみしめ
大叔母らの戦争体験を語る宮城さん
しんとしたガマ(洞窟)に赤ちゃんの泣き声がこだまする。「黙らせろ。さもないと殺すぞ」。
日本兵の怒声を浴び、必死にあやす母親。
泣きやまない赤ちゃんを日本兵が奪い取り、手に掛けた瞬間、母親の悲鳴が響いた。
美作大・短期大学部(津山市北園町)の学生による沖縄戦を描いた創作劇の一シーンだ。
沖縄戦が終結した6月23日の「慰霊の日」を前に毎年、沖縄県人会の有志がキャンパス内で上演している。
沖縄戦を描いた創作劇で、赤ちゃんを殺される母親を演じた宮城さん(中央)=2016年6月
今年も感動をありがとう!美作大学創作劇「時をこえ」(平成29年6月18日)
美作大学 創作劇「時をこえ」(平成28年6月19日)
沖縄出身で美作大2年の宮城幸恵さん(20)は2016年、ガマで赤ちゃんを殺される母親を演じた。
わが子を助けられない悔しさや理不尽な現実への憤り。
「母親の気持ちになりきろうと努めた」と言う。
劇への思い入れがおのずと強くなる訳があった。
宮城さんの曽祖母や祖母が戦争で家族を亡くしていた。
□ ■ □
宮城さんの曽祖母に当たる故・波田間ミエさんは、まだ3歳だった次女のユキさんを失った。
ユキさんは宮城さんの大叔母(祖母の妹)に当たる。
ミエさんは戦前、西太平洋のパラオに移住していた。
戦況の悪化に伴い、子どもを連れて沖縄に引き揚げようと計画。
パラオに近い旧日本軍の根拠地・トラック諸島(現ミクロネシア連邦)をたつ貨客船「赤城丸」に乗り込んだ。
戦前に撮影された赤城丸=「戦没した船と海員の資料館」提供
「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、赤城丸は1944年2月、引き揚げ者ら約560人を乗せて同諸島から横須賀に向けて出発して間もなく、米軍機に空爆されて沈没した。
乗客は海に投げ出された。ミエさんは、ユキさんを自分の体とひもでつないで先に船から降ろすつもりだったが、焦りから、わが身ではなくブリキ缶とひもを結んでしまい、波にのまれるユキさんを見失った。
波間から多くの子どもの叫び声を聞いたミエさんは、パニックになりながらも日本のボートに救われた。
辺りは撃墜された日本軍の戦闘機と撃沈された輸送船で“火の海”だったという。
宮城さんの曽祖父(祖母の父)も戦争で命を落とした。
45年3月に沖縄で始まった地上戦。
畑で見張り中、爆撃を受けて即死した。当時6歳だった祖母の茂子さん(79)は防空壕(ごう)に身を潜め、何とか生き延びた。
□ ■ □
「悲惨な体験を思い出させるのは申し訳ない」と、身内に戦争のことを尋ねるのをずっとためらってきた宮城さん。
周りには体験を聞かないまま祖父母を亡くし、後悔している友人が少なくない。
昨秋、茂子さんからミエさんらのことを聞かされ、戦争の悲惨さを肌で感じた。
「命の大切さについてこれまで考えてこなかったけど、生き残り、命をつないでくれたおばあ(茂子さん)にありがとうって思った」
17年の劇では、看護要員として沖縄戦に動員され、生徒や教員が亡くなった「ひめゆり学徒隊」を演じた。
戦争を繰り返さないために、体験を伝える重みをかみしめながら、今後は後輩たちのサポート役として劇をもり立てていく考えだ。
沖縄戦描く創作劇に出演した美作大2年 宮城幸恵さん(20)
伝える重みかみしめ
大叔母らの戦争体験を語る宮城さん
しんとしたガマ(洞窟)に赤ちゃんの泣き声がこだまする。「黙らせろ。さもないと殺すぞ」。
日本兵の怒声を浴び、必死にあやす母親。
泣きやまない赤ちゃんを日本兵が奪い取り、手に掛けた瞬間、母親の悲鳴が響いた。
美作大・短期大学部(津山市北園町)の学生による沖縄戦を描いた創作劇の一シーンだ。
沖縄戦が終結した6月23日の「慰霊の日」を前に毎年、沖縄県人会の有志がキャンパス内で上演している。
沖縄戦を描いた創作劇で、赤ちゃんを殺される母親を演じた宮城さん(中央)=2016年6月
今年も感動をありがとう!美作大学創作劇「時をこえ」(平成29年6月18日)
美作大学 創作劇「時をこえ」(平成28年6月19日)
沖縄出身で美作大2年の宮城幸恵さん(20)は2016年、ガマで赤ちゃんを殺される母親を演じた。
わが子を助けられない悔しさや理不尽な現実への憤り。
「母親の気持ちになりきろうと努めた」と言う。
劇への思い入れがおのずと強くなる訳があった。
宮城さんの曽祖母や祖母が戦争で家族を亡くしていた。
□ ■ □
宮城さんの曽祖母に当たる故・波田間ミエさんは、まだ3歳だった次女のユキさんを失った。
ユキさんは宮城さんの大叔母(祖母の妹)に当たる。
ミエさんは戦前、西太平洋のパラオに移住していた。
戦況の悪化に伴い、子どもを連れて沖縄に引き揚げようと計画。
パラオに近い旧日本軍の根拠地・トラック諸島(現ミクロネシア連邦)をたつ貨客船「赤城丸」に乗り込んだ。
戦前に撮影された赤城丸=「戦没した船と海員の資料館」提供
「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、赤城丸は1944年2月、引き揚げ者ら約560人を乗せて同諸島から横須賀に向けて出発して間もなく、米軍機に空爆されて沈没した。
乗客は海に投げ出された。ミエさんは、ユキさんを自分の体とひもでつないで先に船から降ろすつもりだったが、焦りから、わが身ではなくブリキ缶とひもを結んでしまい、波にのまれるユキさんを見失った。
波間から多くの子どもの叫び声を聞いたミエさんは、パニックになりながらも日本のボートに救われた。
辺りは撃墜された日本軍の戦闘機と撃沈された輸送船で“火の海”だったという。
宮城さんの曽祖父(祖母の父)も戦争で命を落とした。
45年3月に沖縄で始まった地上戦。
畑で見張り中、爆撃を受けて即死した。当時6歳だった祖母の茂子さん(79)は防空壕(ごう)に身を潜め、何とか生き延びた。
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「悲惨な体験を思い出させるのは申し訳ない」と、身内に戦争のことを尋ねるのをずっとためらってきた宮城さん。
周りには体験を聞かないまま祖父母を亡くし、後悔している友人が少なくない。
昨秋、茂子さんからミエさんらのことを聞かされ、戦争の悲惨さを肌で感じた。
「命の大切さについてこれまで考えてこなかったけど、生き残り、命をつないでくれたおばあ(茂子さん)にありがとうって思った」
17年の劇では、看護要員として沖縄戦に動員され、生徒や教員が亡くなった「ひめゆり学徒隊」を演じた。
戦争を繰り返さないために、体験を伝える重みをかみしめながら、今後は後輩たちのサポート役として劇をもり立てていく考えだ。