私の仕事相手である町の中小企業は、ほとんどがワンマン経営である。
ある程度、規模が大きくなると幹部社員が育ち、ワンマンから集団合議制へ経営の主体が移行することもある。ただし、滅多にない。
中小企業の強みは、決断の速さと機動力にこそある。だからこそワンマン経営が求められる。ワンマン経営を批判する人は多いが、ワンマン経営こそ信賞必罰のきわみにある経営手法であるのも事実。
なにしろ経営者自らの決断で、会社の業績は大きく変る。その判断を過てば、たちまち市場から弾き飛ばされる。成功すれば甘い果実は独り占めだが、失敗した場合の責めは一人で背負わねばならない。この過酷さが、世界に冠たる日本の中小企業を育んだ。
実績に裏づけされたワンマン経営者は、当然の結果として自分の正しさに固執するようになる。そうなると、このワンマン経営者たちが集まって、何かを決めようとすると必然的に紛糾する。
彼らは絶対的な指導者の存在を許さない。指導力のあるリーダーは認めず、かわりに利害調整型の人物を形式上のリーダーに祭り上げる。いかに自分の意向を汲み上げる人物をリーダーの座に押し上げてやるかが、主導権を握るポイントとなる。
一方、祭り上げられたリーダーは、全体のバランスをみて舵取りをすることを求められる。しかし、本来あるべき指導者としての強制力には乏しく、各方面への根回しと利害調整に追われることになる。
結果として、統一体としての明確な方針や意思が不明確な政治となる。これが明治維新以来の日本の近代化を担う政府の本質であった。政治とは本来、経済、軍事、行政、文化など多様な勢力の中心にある存在である。しかし、明治から昭和にかけての日本は、経済の近代化以上に、軍事的高度成長が際立ついびつな構造であった。必然的に軍部の意見が政治に反映しやすくなる。
もっとも明治維新の元勲という強力な指導者たちがいた間は、政治的目標が明確であった為、混乱し迷走するようなことはほとんどなかった。軍部の指導者でもあった元勲たちは、当然のように軍部を抑えることができたからだ。
ただ憲法制定の際、本来実権の無い天皇に権限を形式的に与えてしまったことが、後々の軍部独走を招いた。実権のないことを自覚していた天皇は、素直に形式的な主権者の地位を演じて、政治実務は内閣に任せた。
しかし、元勲の多くが退き、内閣が政治の主体となると、主権が天皇にあることを利用して、軍部が政府を壟断した。これは誇張はあっても事実だと思う。しかしながら、軍部が独走したことにも、相応の理由があることも確かだ。
その理由の一つに、幣原外務大臣に代表される理想主義的な外交姿勢にある。国際協調という麗しき理想に目がくらんだ政治家は幣原だけではない。アメリカにも欧州にも、この理想主義的政治姿勢は一定の支持を集め、実際に現実の政策として実現した。
しかし、その美しい理想も大恐慌の暴風の前に吹き飛び、理想では覆い隠せぬ人種差別感情や、貪欲な経済原理の前には無力であった。危機にあっては、利害調整型のリーダーはむしろ有害ですらある。だからこそ、現実的で実績有る軍部や財界の専横を招き寄せることとなった。
本気で戦争の反省をしたいのなら、謝罪よりもまず、現実の政治でなにがおこったのか正しく認識する必要がある。その意味で、歴史をアメリカで学び、アメリカの学者として実績を残した入江氏の著作は良きテキストになりうる。
歴史は勝者のエゴで書かれてしまうが、それは必然であり不快であっても受容せねばならぬことでもある。ただし、多面的な見方はあってもいいと思う。日本の外交に視点を置いて、20世紀の日本がいかに揺れ動いたかを述べ記している。
謝ればいいだろうという安直な反省や、負け戦を美化するような不健全さとも無縁な、冷静な歴史的視点は、敗戦を反省する上で、良きヒントを与えてくれると思います。ページ数は少ないものの、読み応えはあり、思ったよりも読むのに時間がかかったのが印象的でした。考え込みながらする読書も、けっこういいものです。
追記 せっかくの連休なので6日までお休みします。再開は7日(木曜)です。では、おやすみなさい。
ある程度、規模が大きくなると幹部社員が育ち、ワンマンから集団合議制へ経営の主体が移行することもある。ただし、滅多にない。
中小企業の強みは、決断の速さと機動力にこそある。だからこそワンマン経営が求められる。ワンマン経営を批判する人は多いが、ワンマン経営こそ信賞必罰のきわみにある経営手法であるのも事実。
なにしろ経営者自らの決断で、会社の業績は大きく変る。その判断を過てば、たちまち市場から弾き飛ばされる。成功すれば甘い果実は独り占めだが、失敗した場合の責めは一人で背負わねばならない。この過酷さが、世界に冠たる日本の中小企業を育んだ。
実績に裏づけされたワンマン経営者は、当然の結果として自分の正しさに固執するようになる。そうなると、このワンマン経営者たちが集まって、何かを決めようとすると必然的に紛糾する。
彼らは絶対的な指導者の存在を許さない。指導力のあるリーダーは認めず、かわりに利害調整型の人物を形式上のリーダーに祭り上げる。いかに自分の意向を汲み上げる人物をリーダーの座に押し上げてやるかが、主導権を握るポイントとなる。
一方、祭り上げられたリーダーは、全体のバランスをみて舵取りをすることを求められる。しかし、本来あるべき指導者としての強制力には乏しく、各方面への根回しと利害調整に追われることになる。
結果として、統一体としての明確な方針や意思が不明確な政治となる。これが明治維新以来の日本の近代化を担う政府の本質であった。政治とは本来、経済、軍事、行政、文化など多様な勢力の中心にある存在である。しかし、明治から昭和にかけての日本は、経済の近代化以上に、軍事的高度成長が際立ついびつな構造であった。必然的に軍部の意見が政治に反映しやすくなる。
もっとも明治維新の元勲という強力な指導者たちがいた間は、政治的目標が明確であった為、混乱し迷走するようなことはほとんどなかった。軍部の指導者でもあった元勲たちは、当然のように軍部を抑えることができたからだ。
ただ憲法制定の際、本来実権の無い天皇に権限を形式的に与えてしまったことが、後々の軍部独走を招いた。実権のないことを自覚していた天皇は、素直に形式的な主権者の地位を演じて、政治実務は内閣に任せた。
しかし、元勲の多くが退き、内閣が政治の主体となると、主権が天皇にあることを利用して、軍部が政府を壟断した。これは誇張はあっても事実だと思う。しかしながら、軍部が独走したことにも、相応の理由があることも確かだ。
その理由の一つに、幣原外務大臣に代表される理想主義的な外交姿勢にある。国際協調という麗しき理想に目がくらんだ政治家は幣原だけではない。アメリカにも欧州にも、この理想主義的政治姿勢は一定の支持を集め、実際に現実の政策として実現した。
しかし、その美しい理想も大恐慌の暴風の前に吹き飛び、理想では覆い隠せぬ人種差別感情や、貪欲な経済原理の前には無力であった。危機にあっては、利害調整型のリーダーはむしろ有害ですらある。だからこそ、現実的で実績有る軍部や財界の専横を招き寄せることとなった。
本気で戦争の反省をしたいのなら、謝罪よりもまず、現実の政治でなにがおこったのか正しく認識する必要がある。その意味で、歴史をアメリカで学び、アメリカの学者として実績を残した入江氏の著作は良きテキストになりうる。
歴史は勝者のエゴで書かれてしまうが、それは必然であり不快であっても受容せねばならぬことでもある。ただし、多面的な見方はあってもいいと思う。日本の外交に視点を置いて、20世紀の日本がいかに揺れ動いたかを述べ記している。
謝ればいいだろうという安直な反省や、負け戦を美化するような不健全さとも無縁な、冷静な歴史的視点は、敗戦を反省する上で、良きヒントを与えてくれると思います。ページ数は少ないものの、読み応えはあり、思ったよりも読むのに時間がかかったのが印象的でした。考え込みながらする読書も、けっこういいものです。
追記 せっかくの連休なので6日までお休みします。再開は7日(木曜)です。では、おやすみなさい。