日頃お世話になっている人からの頼み事は断りずらい。
大学生の頃は、週に一、二回渋谷のホテルで駐車場の係員のアルバイトをやっていた。夕方5時にシフトに入り、夜11時までの勤務である。その日も無事終えて、交替の警備員の方に引き継ぎ、荷物を置いたまま近くの食堂に夜食を食べに行った。
戻ってきた時は0時前で、いつもならホテルも人影なく、虚ろな感じなのだが、なぜかその時は幾人かがせわしげに動き回っていた。なにか事件があったらしいが、自分には関係がない。終電が近いので、足早に警備室へ行き荷物をとろうとしたら呼び止められた。
誰かと思ったら警備主任のO氏とホテルのマネージャーだった。「ヌマンタ君、これから帰宅するのかね?」はい、そうですと答えると、二人は目配せしてから私を座らせて頼みごとをしてきた。
マネージャーとは挨拶程度のかかわりしかないが、警備主任にはいろいろ世話になっている。以前、駐車場で騒いでいた数人の若者を追い出すのに苦労していた時、この0氏が駆けつけてきてくれて、助けてもらった。
この方、警察出身で柔道は3段なだけに強い、強い。背後から腕をとられてしまい、小突かれていた私をすぐに解放してくれた。いきり立つ若者たちが向かってきたが、対峙するO氏の強さは圧倒的だった。後からやってきた警察官数人に鷹揚に挨拶して、倒れて呻いているチンピラたちを引き渡す姿は実に頼もしかった。この人に頼まれては断れない。
なんでもホテルの上客が気分が悪いので、ご自宅までその方の車で送迎して欲しいとのこと。もちろん交通費と手間代はホテルで出すとのことである。私としては、実にありがたい臨時収入であるので、気軽にイイですよと答えた。もしかしたらチップも期待できるかも・・・
送り先は都内であり、送り届けた後はタクシーで1000円程度で帰れそうだ。だが、ちょっと気になったのは、さっきの二人の目配せと、フロント前の騒がしさだ。なにかあったのだろうか。
ホテルというところは、秘密主義が徹底している。だからマネージャーも警備主任も何も言わなかった。でも、私はこっそりと見ていた。フロント前にたむろしていた数人は、私服姿ではあったが、どうも警察クサかった。そして元・警察官である警備主任となにやら親しげに話していたことを。
多分、なにか事件があったのだろう。そうなると私が送り届けるホテルの上客は、その関係者なのだろう。ちょっと興味がわいたが、バイトといえどもホテルの従業員であり、余計な詮索は無用なのは言うまでもない。
あたしゃ、単なる送迎係りだと割り切って、さっそく駐車場でその上客を迎える。高そうなスーツを着た初老の男性だが、放心状態であり、これでは運転は無理だろう。ならばホテルに泊まれば良いと思うのだが、どうも早く帰宅したいらしい。いや、なにか怯えて、早くこの場から立ち去りたいらしい。
軽く挨拶して、その上客の車の後部座席に座ってもらい、私は運転席へ。ちなみに車はベンツであり、私も何度か運転したことのあるタイプだったので安心した。高速を使っていいかと尋ねると、なるべく早い方がいいのでそうしてくれと言う。
マネージャーに見送られて、すぐに首都高に乗り、そのまま指示された住宅街へと向かう。着いた先は瀟洒な邸宅であり、広い庭には他にも数台車が置いてあった。その間に車を停めて、後部座席の扉を開けてあげると、さきほどとは一転して背筋を伸ばしてシャキとした姿で上客は姿を現した。
はて?いやに豹変ぶりが激しいが、仏頂面で玄関まで送り、期待以上の額のチップを戴き、ほおが緩むのを我慢しながらそのお宅を出た。深夜の住宅街をニヤニヤしながら最寄りの駅まで歩く。既に1時を過ぎていたので、流しのタクシーを探さねばならない。
街路灯があるとはいえ、薄暗い深夜の住宅街は人気がなく、なんとなく薄気味悪い。実を云うと、私は深夜の散歩が大好き。人気のない街をブラブラと歩くと、気持ちが落ち着くし、街を独り占めしているかのような気分になれる。
ところが、その晩はいささか勝手が違った。どうも、なんとなく気が重い。オカシイな、懐は温かいし、体調も悪くない。ただ、なんとなく気持ちが沈むのは何故なのだろう。
まァ、いいさ。駅前の広場まで行けば、深夜タクシーぐらい見つかるだろう。と、少し前方の角を曲がって、こちらへ歩いてくる人影を見つけた。少しふらついているところをみると、どうも酔っ払いらしい。絡まれるのも難儀なので、少し距離を開けてすれ違う・・・
ん?
なにやら様子が変なので、振り返ると当の酔っ払いのおじさん、道路に座り込み、こちらを指さして口をポカンと開けている。なんなんだ?
私が近寄ろうとすると、妙な奇声をあげて逃げてしまった。おいおい、なにも取らないぞ。なんか気持ち悪いというか、不気味なのだが、何が何だか分からない。仕方なく、そのまま駅に向かって歩き出す。
駅前に着くと、広場にはタクシー乗り場があり、数台のタクシーが暇そうに停車していた。その一台に乗り込み、住所を告げてシートに深々と座る。タクシーはそのまま十数分で自宅前まで走ってくれた。
ちょっと変だったのは、その間に車内ではまったく会話がなかったことぐらいだ。おかしいなァ、深夜のタクシーの運ちゃんは、けっこうお喋りなんだけどね。料金を支払い、下車しようとするとそれまで無言だった運転手が話しかけてきた。
「お兄さん、お祓いを受けたほうがいいよ。気づいてないみたいだけど、女性の霊が付いているみたいだよ」
え?問い返そうとしたら、気持ち悪そうにそっぽをむいて、すぐに走り去ってしまった。
ビックリして、そのまましばし立ちすくんでしまった。お化けが私についている?なんのこっちゃ。
振り返っても何も見えない。何も感じない。第一、女性の霊に取りつかれる理由がない。深夜に外で立ちすくんでいても仕方ないので、そのまま自宅へ帰る。さて、玄関には姿見の鏡がある。もしかして、なにか映るのだろうか。
さすがに鏡を見るのに少し躊躇ったが、思い切って鏡の前に立ってみた。
~ん、自分の姿以外になにも見えないぞ。別に肩が重い訳でもなく、頭痛がする訳でもない。ただ、眠かったので、すぐに着替えて床にもぐり込んで熟睡してしまった。
朝、起きた時も別段変な夢をみた記憶もない。昨夜の酔っ払いといい、タクシーの運ちゃんといい、ありゃ何だったんだと思ったが、その週は忙しくて忘れてしまった。月曜日の朝、大学に行った時は誰も私の背中に霊がついているなんて言わなかったしね。
ただ、金曜日の夜には再び駐車場のバイトが入っていた。バイト先に着くと、マネージャーに挨拶し、すぐに駐車場に向かおうとしたら呼び止められた。先週の件の上客の送迎について尋ねられたので、無事送っておきましたと答える。
送迎分は今月のバイト代に加算しておくからねと云われて、私もにっこり。お金はありがたいものである。上乗せ分のバイト代はなにに使おうかと思案していたので、例の背後霊のことは、すっかり忘れていた。
そのまま駐車場の係員室に入って、11時まで何事もなく働く。交替の警備員は、警備主任のO氏であった。引き継ぎ中の雑談で、先週の上客のことを訊いてきたので、車の中では大人しかったのですが、家に着いたら偉そうなぐらい元気でしたよと答えておく。
するとO氏が急に考え込むように座り込んだので、ヘンに思い先週末何があったのか聞いてみたところ、とんでもない返事が返ってきた。なんとホテルの一室で女性の自殺があり、その部屋を借りていたのが件の上客であったそうだ。
だから私服の警官がうろついていたのかと得心したが、ちょっと気になって本当に自殺ですよねと尋ねると、「詳しくは話せないが、自殺の線で間違いない」と断言された。
そうか、自殺だったのか。ここでようやく私は、先週の背後霊の件を思い出した。まだ座り込んでいるO氏に、送迎後の酔っ払いとタクシーの運ちゃんの話をしたら、Oさん顔面蒼白になった。
「やっぱり、見間違いではなかったんだ」と独り言のようにつぶやく。おい、やっぱりって何なんだよ。
O氏を問いただすと、本当はO氏が送迎する予定だったのだが、件の上客の背中に女性の霊が見えたので、怖くなって辞退したら、たまたま私を見かけたので頼んだのだと苦笑交じりで話してくれた。
ちなみに、今の私の背後には何も見えないから大丈夫だよと慰めてくれた。
いったい、なんなんだよと憮然としたが、たしかO氏、強面の巨体にもかかわらずお化けが苦手だと思い出し、仕方ないなァと納得する。なにしろ新宿のホテルの13階が怖くて、9階までしかないこのホテルに転職したほどだ。
苦手なものは苦手で仕方ないよなと思いながら帰宅の途についたが、なんだって私の背後に着いたんだ、あのお化けさんは。で、いつ離れたんだ?
まァ、私に実害はなかったのだから、良しとしますかね。
それにしても、あの背後霊、どんな女性だったのだろう。それだけは気になったのですが、誰も教えてくれません。みんな、勝手だよなァ。
50も目前の私ですが、自分自身に霊がまとわりついたなんて経験は、この時一度きり。ただ、自分ではまるで自覚がなかったので、あまり当事者感覚はありません。別に霊が見たいわけでもないのですがね。
そういえば、あの時も夏から秋へと切り替わる変わり目で、暖かいというより温い空気が、秋の風に乗って吹き付けるような微妙な天気の夜でした。霊って、あんな感じの温い空気が好きなのだろうか。
あなたの背中、大丈夫ですか。なにか乗っている感覚ありませんか。鏡を覗いてみたら、もしかして・・・