銀座の事務所のあるテナントビルを出ると、熱気の凄さに思わず後ずさりしたくなる。
銀座に限らず、どこのオフィス街も似たようなものだ。太陽の日射だけでなく、空調の排気熱が大きな原因であり、またアスファルトが熱を保持して放射することも大きく影響している。
まるでサウナの中を歩くような気持ちで、千駄ヶ谷の東京税理士会館に電車で向かう。ここは税務会計関係の書籍が充実しており、この夏に取り組む新しい業務のための資料を探すのが目的だ。
税理士会館は新宿御苑のそばにある。都内でも屈指の緑地公園である新宿御苑だけに、夏のこの時期は蝉の鳴き声が凄まじい。だが、ここは明らかに空気が涼しい。
暑い空気は同じはずなのだが、緑豊かな林の中を潜り抜けた空気は、どこかヒンヤリとした感じがする。オフィス街の空調の排気熱のような、熱気のこもった空気は感じられず、草の香りがほのかに漂う乾いた空気に変わっている。
これは森のなかの空気に間違いない。
私は目が悪い分だけ、嗅覚と聴覚に頼る癖があった。森深い山道を歩くときは、音と匂い、地面の固さ、植物の生え具合などに注意をする必要がある。実を云うと、北アルプスや八ヶ岳のような高山では、あまり気にしない。特に植物がすくない岩稜帯を歩くときは、踏み跡は限られており、迷うことはまずない。
ところが、標高の低い山だとハイキングなどに使う登山道と、地元の人が仕事で使う杣道が入り混じっていることが多々ある。杣道は必ずしも山頂を目指す訳ではないので、間違って入り込むと迷ってしまう。
また標高の低い山では、獣道と人の使う山道が入り混じることも少なくない。イノシシやシカにとって、整備された山道は歩きやすいので、人がいない時間帯、つまり深夜などだと堂々と登山道を使っている。
ただし、野生動物は山頂を目指すわけはなく、水場や餌場へと移動するのが目的なので、登山道をそれて奥深い山裾へとずれていく。多くの場合、体高が低い野生動物に合わせて、緑のトンネルとなるのですぐ分かる。
だが、季節によって、あるいは植生によっては獣道と登山道があいまいになることもある。そんな時は、匂いと地面の柔らかさで判断する。獣道は多くの動物が匂い付けをするし、糞が点在しているのが普通だ。
また当然に人間が踏み固めた登山道とは、明らかに道の固さが異なる。これに気が付かないと、獣道に迷い込み、山中を彷徨うことになる。毎年、必ず発生する山での遭難のうち、低山での事故は、大半が登山道をはずれたことから起きる。
困ったことに、意図的に登山道をはずれる人間もいる。山菜採りがその典型だが、他にも写真撮影とか、思いもよらぬ理由で登山道をはずれて、山道を彷徨う遭難者も少なくない。
地元の人が仕事に使う杣道なら良いが、獣道だと人が歩くことを前提としていないので、けっこう危ないことが多い。俊敏な獣と異なり、人間はかなり鈍重だ。ちょっとした崖でも、シカやイノシシは平然と歩けるが、人間はすくに足元を掬われる。
転倒して怪我をし、動けなくなって初めて山の怖さを知る。特に夜が訪れて、星明りさえ見えぬ真の闇に怯えることになる。私も経験があるが、暗闇のなかで動くことも出来ずにいると、普段気が付かない音や匂いに気が付く。
静かだと思っていた夜の山は、意外に賑やかだ。匂いだって草や花の匂いだけではない。イノシシやシカがする匂い付けの獣臭や、腐った果実の匂いが漂うこともある。
暗闇のなかで怯えながら、普段気が付けない音や匂いに驚き、人間の鈍感さを思い知る。学生の頃は、暑い夏はいつも山か海にいた。自然の匂いが当たり前のようにあり、たまに街中に行くと、人間のもたらす不自然な匂いに違和感を感じたほどだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、御苑脇の税理士会館に着いた。おや?やけに人が多いぞ、今日何かあったっけ?
そこで、ようやく気が付いた。今日は「広大地に関する判例等の研修」だったことに。出るつもりだったのに、忙しくて忘れてた。
しまった、暑さに頭がボケていたに違いない。仕方ないので、買う予定だった資料に加えて、今日の講師の書いた本も一緒に買っておくことにした。カバンがその分重くなったが、これは仕方ない。
会館を出ると、既に夕刻で御苑からはヒグラシの寂しげな鳴き声が響いている。木々の梢を抜けた涼しい風が心地よい。建物のなかのクーラーによる冷風よりも、はるかに体に優しい涼風だ。
やはり自然はいい。緑のクーラーに勝るものなしだと思う。