時として、言葉遊びなのかと苛立つことがある。
その典型が、この終戦の日という奴である。戦争は確かにこの日に終わった。だが、勝って終わったのではなく、負けて終わったのだ。終戦の日という言葉には、敗戦の事実から目をそむける卑怯さが感じ取れる。
数百万人の戦死者を出した戦争を、終わった、終わったと安堵するだけでいいのだろうか。良い訳がない。なぜ負けたのか、なぜに負けるような戦いをしたのか、それを真摯に考えることを避けている。
代わって、戦争は悪いことだ、戦争は悲惨だと戦争を否定することで、戦争の反省を誤魔化した。元々敗戦を終戦だと誤魔化した卑屈な精神には、戦争が悪い、戦争をやった軍が悪い、軍を否定すれば平和になるに違いないと思い込むほうが楽だったのだろう。
だが、それは反省ではない。敢えて云えば、戦争を反省しているかのような演技である。「ボク、もう戦争なんてしないよ、褒めて、褒めてぇ」と口にする駄々っ子のようなものだ。
もっと真面目に戦争を考えて、そして負けた戦争を反省して欲しい。
戦争は天災ではない。人が起こすものである。なれば人について謙虚に考察する必要がある。人の歴史のなかで、争いが無くなったことはない。なぜなら争い、すなわち闘争に優れたが故に生存競争を生き延び、地上の至る所で生息したのが人であるからだ。
ライオンの牙もなく、クマのような強靭な腕力もない、個体としては貧弱といっていい人が、地上の弱肉強食の覇者となり得たのは、集団戦に長け、知識と冶術の継承が出来る上に、それを日々進歩させることが可能な知力をもっていたからだ。
夫婦喧嘩をしない夫婦がいないように、如何に信頼と愛情に繋がれていようと争い自体をなくせないのは、人が人であるための要素の一つに闘争力があるからだ。
平和真理教徒が如何に必死で平和を叫ぼうと、戦争はなくならない。軍隊をなくしても戦争は起こるし、武器を禁止しても道具は武器として使われてしまう。争うことを人に止めさせるのは不可能だと、何故に正直に、率直に認めることが出来ないのか。
また日本が20世紀前半において戦争への道を疾駆したのは事実だが、なぜにそうなったかの考察抜きにして、敗戦の反省はありえない。
世界恐慌とその後のブロック経済から締め出されたことが、日本を苦境に追いやり、大陸侵略へと動かしたのは確かだ。当時の日本は大財閥が経済の大半を握り、過度な軍事強化が経済を疲弊させていたのも事実である。
当時の日本は長引く景気低迷に喘いでいた。その一方で財閥や華族などの特権階級の人たちは、相次ぐ合併や買収で肥え太り、貧困に喘ぐ大衆との大きな格差が広がっていた。
あの頃の日本では、姉や妹が人売りに買われていき苦界(売春宿など)で働かされることなんざ、日常茶飯事であった。軍隊の下級兵士たちは、家族がそのように苦しんでいることを知っていた。
だからこそ、強制的な内政改革を求めて2.16事件は起きた。しかし、世間知らずの御坊ちゃまである昭和天皇に大衆の苦悩など分かるはずもなく、単なる反乱分子として処理された。もはや内政改革ではダメだとの絶望が、大陸への侵略を促した。
当時から民間人は数多く大陸へ活路を求めて進出していたし、そこで不当に扱われていたのを助けられたのは軍隊だけであった。軍隊こそが苦境に喘ぐ日本の大衆の希望の星であり、救いの手であった。戦前、軍部は圧涛Iに大衆から支持されていた。これが現実だ。
しかし、だ。本当に大陸侵略以外に日本を救う手はなかったのか。私はもう一つの可能性があったのではないかと考える。そのヒントはアメリカにある。大恐慌に喘ぐのは欧米も同じだが、アメリカは一つの解決策を編み出している。
それが所謂独占禁止法である。巨大企業グループが市場の大半を支配して、公正なる社会競争が歪められていると考えたアメリカ政府は、多大な反対を乗り切って、独占禁止法を可決した。
その効果は遅々として、なかなかに表れていなかったが、確実に小さな企業を復活させた。新たな雇用が生まれ、大不況を緩和させた効果があったことは、戦後の研究で明らかになっている。
実は当時の日本政府もそのことを知り、調査団を派遣したり、うちうちに内務省あたりが研究していた。しかし、薩長閥を頂点とした特権階級が、その実現を阻んだ。君臨すれども統治に興味がなかった昭和天皇は関心すら示さない。まァ、示しても役に立ったとも思えないが。
もし、仮に1920年代に日本で独占禁止法が実施され、大財閥が解体を余儀なくされていたら、果たして日本はどうなっていただろうか。歴史にIFは禁物ではあるが、戦後GHQにより強制的に行われた財閥解体と農地解放が、その後の経済成長の苗床となった現実を思えば、考えてみる価値はあると思う。
大陸侵略だけを日本を救う政策だと考えていたがゆえに、戦後は侵略を否定し、戦争を否定し、軍隊を否定すれば良いといった安易というより空虚な平和主義者を蔓延させたのではないかと思うことがある。
8月15日は確かに戦争が終わった日ではある。しかし、敗戦の日として考えてこそ、本当の意味での反省が出来るのではないか。私は断固、終戦の日などという言葉遊びは認めてやらない。