そろそろ、考えるべき時期が来ているように思う。
もちろん憲法改正である。
日本という国は、古くから国家体制を営んできていたが、不思議なほど哲学を必要としない国であった。ここでいう哲学とは、世の中をどうとらえ、どう理解し、どうするべきかと考える思考を指す。
ところが、日本列島の大半を日本人単一の民族で支配してきたので、社会とはどうあるべきか、社会をどのような思想で統べるべきかを考える習慣がなかった。いや、必要なかった。常識という名の共通理解が、日本全国津々浦々行き渡っていたからでもある。
ただし、例外が二度あった。それは朝鮮半島が戦乱の末に幾つもの小国が滅亡し、その一部が日本へ逃亡してきた時だ。単なる亡命者ではなく、冶金や薬学などの知識を備えた有益な人材であり、当時の大和朝廷にとっても必要な人材でもあった。
だが、外国人が大量に流入してくることは、必然的に混乱を招く。だからこそ、当時の日本において新たな哲学が必要であった。それが聖徳太子の憲法であり、天智天皇の大化の改新であったと私は考えている。
大化の改新がどの程度、日本社会を変えたのかは、いささか異論がない訳ではない。しかし、聖徳太子の17条の憲法は今日に至るまで、日本人の精神風土の礎となっていると私は考えている。
なぜ、あの時期に聖徳太子は憲法を作らねばならなかったのか。作らねばならぬ必然性があったからだと思う。あの時代、超大国シナは分裂から統一へと勢力を拡大し、その影響下で小国が林立していた朝鮮半島は混乱が続き、シナ同様に統一に向かっていた。
日本においても物部氏や蘇我氏など有力部族が、大きく大和朝廷に影響力を振う混乱期である。外国からの圧力をひしひしと感じつつ、国内を思想的にまとめる必要があった。
それが聖徳太子の憲法であり、大化の改新であり、最終的には天武の日本書紀編纂にまで至ると私は考えている。
以来1000年以上が過ぎ、幕末の開国と明治新政府の下で、帝国憲法が作られた。この明治憲法はプロシアのそれを真似したものであるが、欧米の帝国主義と幕藩体制からの脱却に向けて、これからの日本をどう考えるべきか、どのように目指すべきかを真剣に考えた成果でもある。
その成果が、日本をして近代化せしめ、五大軍事大国となり、やがては新興勢力の宿命である旧来の勢力への戦いとなり、その結果が第二次世界大戦であった。急激に成長した国家だけに、敗戦の衝撃は大きく、しかも今後の国家の基本を定める新憲法を、勝者に委ねるという屈辱を舐めるに至る。
だが、呆れたことに、日本は類いまれな学習能力を発揮し、与えられた憲法の下で、最大限の国家再建を果たしてしまった。これは冷戦という外的要因の賜物ではあるが、勝者たるアメリカも予想外の事態であった。
だが、ここでアメリカはジレンマを抱える羽目に陥る。本来、仇敵たる日本を封じ込めるための憲法であったが、経済大国になった日本は、アメリカにとって極めて貴重な軍事的拠点となっていた。手放すことは出来ないが、さりとてその与えた憲法ゆえに兵站拠点以上の役割を与えることも出来なくなってしまった。
このアメリカのジレンマを知りつつ、ひたすらにその状況を利用し、国家再建と経済発展に過度に傾唐オた結果が、今の日本でもある。今や唯一の覇権国でありながら、世界がアメリカンルールに従わぬ現実に苛立つアメリカにとって、新しい役割を負わせたいが、それが出来ずにいるのが日本である。
だが、アメリカの苛立ちとは別個に、日本は内部に問題を抱えていた。それが増大する高齢化社会であり、それを支えるはずの若年層の減少、すなわち少子化である。
現代の日本は、大きな政府に福祉を頼る巨大な社会システムを抱えている。そのシステムを運用する人材が、不足しており、今後更に足りなくなることが明白となっている。
長年、日本社会を支えてきた巨大な建築業界は、既に高齢化と少子化で人手が不足しており、仕事はあってもそれをこなす人材が足りない。日本企業最大の強みである製造業では、ロボットの導入などで人手不足を補ってきたが、人手が頼りの現場では廃業が相次いでいる。
病院、介護などの福祉分野では、待ったなしの人手不足の惨状であり、外国人の導入はあるなしの問題ではなく、如何に上手く受け入れるかの問題として逼迫している。
人気のテーマパークでは、お客さんから見えぬところで、外国人労働者が働いている。我々が日頃口にする食材も、外国人労働者の手を経ているものが数多くあるが、それに気が付いていないだけだ。
もはや、日本社会に必要不可欠なものとなりつつある外国人を、今後如何に受け入れていくか。そのための哲学が必要となる。哲学を大学の内部での高尚な知的論壇程度に考えている人は、けっこういると思う。
しかし、哲学が本当に必要なのは、混乱する社会においてこそである。社会の変化を、どう捉え、それを今後どうしていくのか、そのための指針であり、海図であり、ナビゲーションシステムである。
随分と話題になった表題の書だが、その内容はそのまま日本社会に活かせるものではない。あくまで日本社会に相応しい哲学を考えなければならない。それは最終的には憲法のみならず、民法や商法、刑法にもかかわってくるはずだ。
一応、言っておきますが、役人任せはダメです。役人というものは、現状を正しいと認識して仕事をする人たちで、現状に問題があると考えて、現状を変えようとする作業は苦手です。むしろ、現状に合わない法制度に、現状をこそ歪めて無理やり適合させようとする。
21世紀の日本に必要なのは、聖徳太子であり、天智天皇であり、天武天皇だろう。つまり国内において、熾烈な政治闘争が起こると予想されるべきなのです。死をも覚悟するべき過酷な思索が求められるのが、本来の哲学なのだと思い知らされるかもしれません。