二十歳前後の頃だが、新宿の地下街にある深夜喫茶でボーイをしていたことがある。
渋谷で夜11時までホテルの駐車場でアルバイトを終えると、すぐに山手線に飛び乗って新宿に向かう。駅を降りると、階段を幾つか上り下りして、あの複雑な地下街に赴く。当時は風営法改悪前であり、今ほどお洒落ではなく、むしろ猥雑な印象さえある地下の繁華街であった。
地下街なので地上の天候とは無縁だと言いたいが、実際はなんとなく分かる。特に雨が降っている時は、雨が降らない地下にいても不思議と分かる。なんとなくだが、空気が湿るというか、音の響きが変わるからだ。
そんな時の深夜勤務は憂鬱だ。雨宿りが目的の客が自然と増えるので、忙しくなるだけではない。雨の鬱陶しさを持ち込むような妙な客が混じるからだ。そんな時は、出来る限り客の目の届かぬところで待機して、ただ声がかかるのだけを待つ。
場所柄、ヤクザの客筋もあり、気晴らしに苛められることもある。あの時もチンピラ風の若いが品の無い連中が4人ほど現れ、席につくより先に「濡れちまったから、お手拭を持ってこい」と言い放ち、6人鰍ッの席を4人で占拠して、ふんぞり返った。
お手拭を多めに持っていくと、こちらに目も向けずに、一人ひとり勝手に「ビールだ」「水割り」「ロック」「チョコレートパフェ」「ホットケーキ」などとオーダーを取る暇もくれずに、がなり立てる。もしオーダーを間違えれば、後で因縁つけられること間違いない。
こんな時のため、店ではしっかりとオーダーを速記できるよう工夫を凝らしている。まだボーイとしては新人の私では、とてもじゃないが覚えられない。でも、衝立の裏でメモをとっているのを知っていたので、平然と対応する。でも内心ドキドキだった。
厄介な客ではあるが、金払いはいい。二時間ほどいたが、その間に追加のオーダーを含めて結構な売り上げになる。ただ精神的な圧迫感がきついので、やはり嬉しい客筋ではない。
彼らが店を出た時は、思わず安堵のため息を漏らしたほどが。そこに隙があったのだろう。いきなり声を掛けられた。はい、と思わず返事してすぐに後悔した。一番、声をかけて欲しくない客だった。
長い黒髪といえば聞こえはいいが、枝毛が多く傷んでいることが分かる。ダークな服装で落ち着いた雰囲気ではあるが、傍で見ていると挙動不審で危なっかしい。チーフに言わせると、ダウン系のお薬に手を出しているらしいとのこと。
年齢?薄暗い店内ならば20代後半で通じるかもしれないが、首筋の張りの無さや、いつもタバコを手放さない手のやつれからして、おそらくは40代から50代と思われる。
この店の常連客ではあるが、実は一番警戒されている客でもあった。大体、深夜3時過ぎにやってきて、注文するのはいつもスパゲッティ、ただし大量のタバスコ入り。明け方までに水割りを3杯ほど、時間をかけて飲み、始発電車が出る頃に店を出る。
ここは新宿であり、おそらくはホステスさん。よくある客筋ではあるが、この人が店のスタッフから警戒されていたのは、その男癖の悪さであった。ちょっと可愛いボーイだと、すぐに声をかけ、閉店後のデートに誘いだす。
それだけなら良いのだが、そのデートの際に薬を盛るらしく、誘われたボーイのほとんどが数日は無断欠勤となる。後日給料を取りに来たある青年は「もう二度とあの女にはかかわりたくないので」と云って辞めていった。
チーフの話では、その可愛いボーイ君、数日間その女の部屋に閉じ込められて、意識朦朧となりながら淫らな時間を過ごさせられたらしい。その話を聞かされた時、チーフは「ヌマンタ君なら、多分守備範囲外だから大丈夫」と云っていたので、大丈夫だろうと思っていたのだが、どうも甘かったらしい。
自慢じゃないが、あたしゃ可愛いとは無縁のがさつ者である。自分だけは大丈夫だと思ってはいたが、一応警戒はしていた。ただ、その夜はヤクザものの対応を終えて、一安心していた隙を突かれてしまった。
「ねえ、あなたお店終わったら、お暇?」と色っぽい目つきで尋ねてきた。
とっさに、今日の夕方の電車で北アルプスに登山に行きます、と嘘を付いた。すると「ふ~ん、君、山登りするんだ。たしかに似合っているね」と投げ遣りな口調で返すと、後は関心を喪ったようにそっぽを向いた。
私はほっとしたが、これで数日はこの店を休まねばならないことになった。陰で聞き耳たてていたチーフも渋い顔つきであったが、臨時の休みは認めてくれた。正直、バイト代が欲しい時だったので、この嘘による臨時の休みは痛かった。
ふと、気が付くと外の雨は止んだらしく、それを察した雨宿りの客が少しずつ、店を出て行った。もう始発電車は動いている時間だし、雨宿りの必要はなくなったのだろう。
件の女性客も、少しふらつきながら、店を出て行った。その後、何度か深夜勤務の際に見かけたが、再び私に声を掛けることはなかった。ただ、私が休んだ際に臨時で雇った青年が、その毒牙にかかったらしく、二日勤務しただけで居なくなったとチーフが嘆いていた。
表題の作品は、宮部みゆきの短編集。ちょっと怖くて不気味だけれど、安心して読める短編ばかりが収録されている。その巻頭を飾る作品が表題のもの。私は読みながら、ついつい学生時代の深夜喫茶バイトのことを思い出していた。
もし、あの時誘いに乗っていたら、私の人生はどうなったのだろう。そう思うと少し浮「。世の中、知らずにいたほうがいいことって、確実にあると思いますね。