真面目って、何なのだろうと思うことがある。
私の学生時代の友人の大半は皆会社員である。そこそこ世間に名の通った会社であるが、50代になると会社での行く末が見えてくるようだ。役員になれる奴もいれば、その手前で終わりそうな奴もいる。
少数だが、自営もしくは経営者になっている奴もいる。これは高校時代の友人で、大学の連中だと基本サラリーマンである。既に子供が社会人となり、孫がいる奴らもいる。
いずれにせよ、みんな自身の人生の終盤を迎えていることを自覚している。そのせいか、最近はわりあいと彼らとの飲み会が散発的にある。関連会社への片道切符の出向を控えている奴もいれば、第二の就職を模索している奴もいる。
飲み会には、十数年ぶりで会う奴らもいて、いろいろと情報交換に忙しない。太ったり、禿げたりはしているが、学生時代の面影を残しているのが、なんとなく嬉しい。
その一方、消息不明の奴らもいる。どういう訳だか知らないが、真面目だった奴との連絡が取れないことが多い。
私自身は基本、真面目というか勉強の出来る子(落ちこぼれ期を除く)であったのだが、多少やんちゃであったせいか、遊ぶのはあまり真面目でない奴らが多かった。決して不良ではなく、運動部系もしくは元運動部な連中ばかりで、放課後タバコを吸ったり、パチンコに行ったり、居酒屋に行ったりする、ちょっと悪い子ばかり。
私は根がひねくれていたので、真面目一辺倒な連中とは、あまり遊びたいとは思わなかった。もっとも遊び仲間も、そこそこ悪さもしていたが、基本真面目なので、皆堅気の社会人となっている。
だからこそ、クラスメイトで真面目な子たちの消息が気になる。
学生時代に適度に遊んでいないと、大人になってから遊びにドはまりする人がいることを知っているからだ。遊びに免疫がないと、とことんはまり、引き返せなくなる。
かくいう私だって、パチンコにドはまりして、パチンコ三昧の浪人生活を送っている。ただ、多少遊びに免疫があったので、パチンコの合間に勉強を細々と続けていたので、真っ当な受験生に戻ることも容易であった。
以前にも書いたが、大学に入ってから、遊びにドはまりした友人、知人を複数知っている。特に年上の女にのめり込み、2度も留年したFや、学生運動に入れ込みすぎて姿を消したTなどは、その後の消息は不明だ。
十数年ぶりに再会したクラスメイトに訊いてみても、誰も知らなかった。もちろん、真っ当に生きている可能性が一番高いのは分かっている。元々校則も破れないような真面目っ子である。大人になっても、その基本的な姿勢は変わらないのが普通だ。
だが、人生に陥穽は付き物だ。私自身、その陥穽に落ちてしまい、人生行路を大幅に変更して生きてきている。もともとひねくれているので、むしろ真っ当に生きられていることが不思議だとさえ思っている。
実際、私の人生にも裏街道への曲がり角は幾つもあったはずだ。幸い、その曲がり角に入り込まず、真っ当に進んでこれたからこそ今がある。これは決して偶然ではない。
私は幼い頃から、人生の裏街道で暮らしている人々を少なからず見てきた。それを、格好いいと思っていたころもある。でも、キラキラと輝く夜の繁華街は、近づくとそこかしこに反吐の跡や、拭いきれぬ血痕があることに気が付いてしまった。汚いからこそ、ネオンを光らせて隠している。
それは一見、堅気の世界に見えても、裏ではそうでないことがあることも知っている。
私が気になっているのは、高校のクラスメイトのSである。真面目な奴で、どんなに誘ってもタバコも酒も付き合わない堅物であった。どこぞの大学に入り、その後は金融機関に就職したと聞いていた。
しかし、いつのまにやら姿を消してしまった。実は一度、彼の姿を見たと思っている。それはバブルの残照がまだ残っている時であった。その不動産屋は、地上げで悪名高いだけでなく、某広域暴力団のフロント企業との噂が絶えなかった。
当時、私は病気療養中で健康も金も未来もない、ないない尽くしの人生をダラダラと歩んでいた。免疫力が低下していたので、あまり人混みには近づきたくなかったが、その裏通りにはお気に入りの古本屋がある。そして、その不動産屋は、その真向かいに店を構えていた。
その日も、その古本屋で本を漁っていたのだが、窓越しに見える不動産屋の前に数人の男たちがたむろっていた。どう見ても、堅気の人には見えない。ありゃヤクザだなと思い、古本屋の中で彼らが消え去るのを待っていた。
店内にいるのに、外の彼らの怒鳴り声が聞こえてくるのには閉口した。関わり合いになるのは真っ平である。とはいえ、野次馬根性からちらほらと目線を放ってしまうのは避けられない。
最初は気が付かなかったが、騒いでいる男たちの中に、見覚えがある顔を見た気がした。気になって、改めて注視してみると、どうも高校のクラスメイトのSのように思えた。
まさかと思ったが、あの特徴のある耳と顎の形がそうそうあるとは思えなかった。たしか、あいつ銀行員だったのでは?背広を着てはいたが、その着こなしは堅気のものには見えなかった。
もう少し近づいてみようかと思っていたら、黒塗りのベンツが狭い通りに入ってきて、その男たちが乗り込んでいき、すぐに姿を消した。古本屋を出て、件の不動産屋に使づくと、袋叩きにされて息も絶え絶えの中年男性が転がっていた。隣の惣菜屋の女将さんが、なにやら電話で救急車を呼んでいるようだ。
こりゃ、関わり合いになるのはマズイと判断して、私はすぐに自転車にまたがり、立ち去った。それがSの姿をみた最後であった。
あれから数十年後、同窓会でSが不動産屋に転職したはずとの噂を聞いたから、おそらくあれは本当にSだったのだろう。かなり、羽振りが良かったと聞かされたが、今では行方不明である。
あの真面目だったSになにがあったのだろうか。本当に高校時代のクラスメイトでは、極めつけに頭の固い真面目っ子であった。私の知る範囲で、校則を文字通り一文一句違わずに守っていた唯一の男である。(ワイシャツの上までボタン、しっかり締めていたぞ)
これは私の邪推なのだが、彼は真面目だが、真面目であるがゆえに善悪の判断が、教えられないと出来なかったのではないか。そして、規定されていないことは、して良いことであり、それゆえに自らの知性で判断はしていなかったのではないだろうか。
だからこそ、バブルの時代、土地投機で舞い上がる金融業界に於いて、法令の境界線上の、つまり白黒つけずらい曖昧な部分で、常識ならば悪い思えることを、平然と真面目にこなしていたのでは・・・そんな気がしてならないのです。
白状すれば、それは私にこそある。違いがあるとしたら、私は自分の判断で物事の良し悪しを決め、それが法令上明確に黒ではないのならば、やって良しとする傾向が強いのです。それを親しい友人に「あんたは悪いことも真面目にやるから性質が悪い」と言われて、私は初めて気が付いた馬鹿者です。
子供の頃から、私は悪いことも、良いことも、とりあえずやってみて、それから自分で判断していました。だから、悪いことは悪いと知っていたから、それを後悔したり、止めたりすることが出来た。
でも真面目一辺倒なSには、その判断が出来なかったのではないだろうか。それに気が付いた本当に悪い奴らから、上手く利用されたのではないか。そんな気がしてならないのです。
真面目って、本当は良いことなのですけどね。