多分に偏見混じりであることは承知しているが、遠野という地名には、いささかおどおどしい印象がある。
もちろん原因は分かっている。表題の書のせいである。不思議な、あるいは不可解な物語が綴られているが、それがある程度、事実に基づいているであろうと容易に想像できてしまう。
いつの時代でも、山奥深い野山は人目を避けるには最適の地だ。時の権勢者に追われて野山に身を隠した人は少なくなかったはずだ。しかし、人は一人で暮らすには無理がある。
特に逃亡者が男性の場合、女性が欲しくなる。隠れ家を維持するためにも、また人の本能として異性を欲する。だからこそ昔から女性が野山で姿を消す事件が起きたのだと私は想像している。
もちろん遭難した女性もいるだろう。でも私が知る限り、女性は安全志向が強く、あまり無理はしない。道に迷った場合でも、男は突き進むことが多いが、女性は賢明にも元の道に引き返す。
特段統計的検討をした訳でもないが、子供の頃から野山に親しみ、十代は登山に明け暮れた私の実感からの判断に過ぎない。ただ、遠野物語を読むと、何気に失踪した女性の話が出てくる。
多分、昔からあったのだろうと思う。人はそれを妖のせいにしたりして納得することで心の平静を保っていたのだろう。実際、日本では山野に隠れて棲む人々がいることは、わりと昔から知られていた。
サンカ伝説に代表されるように、薬草取りやマタギ衆など山野に暮らす人たちは江戸時代までは確実に存在した。明治時代に入り、戸籍制度の整備が進み、ようやく全ての国民を国家が掌握するに至った。
言い換えれば、江戸時代以前には政府が把握していない人々が山野に実在していたのだろう。私はわりと野山に隠れて棲むことに憧れがあるが、一方でその生活の厳しさも予感している。
病により衰えた私では、野山に隠れて棲むことは出来ないだろうと悲観している。
なお、日本の歴史について考えようと思うと、柳田の提唱した民俗学は無視しえぬ内容を含んでいる。残念なのは、私に十分な民俗学に関する見識がないことだ。いつか十分時間がとれる余暇が出来たら、民俗資料館や民俗博物館などを見学してまわりたいものだ。
まぁこれは引退後の楽しみとなるでしょうけどね。