人は変る。
年齢により、あるいは地位により人は変る。新しい家族の誕生や欠くべからざる家族の喪失でも人は変る。そして変わることで良くなる人生もあれば、悪くなる人生もある。多くの場合、人はそれに気づかない。
そんな典型例が、下働きの下っ端から出世して天下人にまで栄達した豊臣秀吉ではないかと思う。
秀吉(木下藤吉郎)の魅力は人懐こさと、多彩な才能と努力、そして人たらしと呼ばれた人心掌握術であろう。もちろん失敗は幾度もしている。せっかく仕えた主君には気に入れられても、古参の部下から妬まれて追われたこともある。
下剋上が当然であった戦国時代であっても、古くからのしがらみは根強く残っていた。しかし、藤吉郎は織田信長という異才に出会って、ここで初めて自分の才能を活かせる場所を得た。
藤吉郎は幾多の職業経験から得た多才さと勤勉さにより出世したが、己の限界も弁えていた。武士としては弱すぎ、文官としては教養に欠ける。だから自分にはない才能を持つものを集めて、利用して更に飛躍して木下を名乗り、やがては柴田勝家と丹羽長秀から一字づつ貰って羽柴秀吉を名乗るに至る。
多才な部下に恵まれて出世した秀吉は、部下を失うことを厭う。だから野戦よりも攻城戦を好んだ。力づくで攻めるよりも知恵を絞って城を落とすほうが、部下の喪失を減らせると考えていたのだろう。
そんな秀吉の努力を認めた信長から西日本最大の大名である毛利攻略を担っていた最中に飛び込んできた訃報。光秀の裏切りと本能寺における主君・信長の死に呆然とする秀吉。
しかし配下の軍師である黒田官兵衛から「天下取りの好機であるますぞ」と進言され、動揺しながらも一晩で決心しての西国大返しを決行し山崎の戦いで明智光秀を破り、一躍信長の後継者足り得ることを天下に知らしめた。
おそらくだが、この頃から秀吉は変った。
そのことを誰よりも身近に感じていたのが軍師・黒田官兵衛ではないか。古参の蜂須賀小六や官兵衛らはゆるやかに遠ざけられ、替わって石田三成や大谷行部らが用いられるようになる。大事な補佐役であったはずの弟さえも徐々に離されていった。
それを冷静に観ながら、徐々に自身の先行きを模索し悩む軍師・官兵衛を取り上げたのが表題の書である。
江戸時代には、黒田官兵衛は主君信長の死を契機に秀吉を煽動した腹黒な人物として評されることが多かったという。関ヶ原の勝利後、家康から直々に賞された息子・長政に対し「お前はその時、なぜ家康を弑さなかった」と叱責したとの寓話もある。
官兵衛は生涯、一度も主君を裏切ったことはない。秀吉の死後は豊臣家ではなく徳川に近づき好待遇を得たが、これでさえ石田三成らに厭われた結果であり、当の官兵衛は秀吉に対する忠誠心はあっても、その幼子や淀君に対してはそもそも忠誠心はなかったはずだ。
来るべき新たな戦国覇者を決める未来に向け、可能性の高い家康側に付いたのが実態であろう。他にも秀吉古参の部下たちの多くが、家康側に付いているので、これをもって官兵衛を腹黒だと決めつけるのは如何なものかと思う。
黒田官兵衛の物語は普通、西国大返しと山崎の戦いでの勝利を頂点とすることが多い。しかし、この書ではその後の官兵衛と秀吉の関係を丁寧に描いているのが好ましい。秀吉の変貌とその理由、官兵衛の迷いと模索は十分堪能できました。
ただ一点気に障ったのは、官兵衛が側室を持ち、その子が熊太郎だと書いていることだ。官兵衛はあの時代には珍しく側室を持たなかったことで知られ、賢妻として知られる光(みつ もしくは てる)とのオシドリ夫婦であったはず。気鋭の歴史小説家である著者は、いかなる根拠をもって側室を持ったとしたのかが不明なのが難点でした。
なお本作の前編にあたる「日輪にあらず 軍師・黒田官兵衛」もお薦めですよ。