ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

きりぎりす 太宰治

2022-11-04 10:49:37 | 
なぜだか分からなかった。

中学3年の現国の授業で太宰治の「走れメロス」を一人、数行づつ読み上げる授業を受けた。右側の机の列から始まり左側の私の居た列の頃が、丁度メロスが王の元へ戻る終盤であったと思う。

一人数行ではあるが、あまり滑舌の良くない私は、けっこう慎重にゆっくりと読み上げた。たしかメロスが王の許へたどり着くところを読み上げたと思う。4行ほどで後ろのクラスメイトに交替だと思っていたのだが、なかなか先生が合図を出さない。

内心訝しんでいたのだが、呆れたことに最後まで私一人で読み上げる羽目に陥った。理解できず、これは先生のイジメかと思ったほどである。なぜだと悩んだが、妙なことに周囲は特段驚くでもなく、私一人が悶々と悩んだ。

リアの私をご存じの方は分かると思うが、私はお喋り好きではあるが、決して話し上手ではない。雑学豊富で、いらん知識なら持て余すほどに有しているが、口下手に近い。なにより滑舌の悪さから、聞き取りにくいと面と向かって言われてしまうほどである。

それなのに、何故に私一人が最後まで読み上げねばならなかったのか。もしかしてシゴキだったのか?でも国語の成績は良いぞ。

今だから分るが、おそらく私は太宰の名文に酔い痴れていた。陶酔するが如く朗々と読み上げていたのだと思う。そのせいで、先生は交替のタイミングを失したのではないかと思う。

改めて言うが、私は太宰が嫌いだ。あの甘ったれぶり、無責任で自分の姿が世間からどう思われるかに汲々とする実に嫌な男だと思う。ただし小説家として、その文章の上手さは認めざるを得ない。でも、やっぱり嫌いだ。ずっと私は太宰嫌いを自認していた。

しかし、最近になり私の太宰嫌いが、どうやら近親憎悪に近いことに気が付いた。外見はまったく似ていないし、その生き様もまるで違う。そう思い込んでいたが、少しずつ気が付いた。私と似た部分があると。

それに気が付いたのが表題の短編集を読んだ時だ。まさかと思いつつも読み進めていくうちに、自分と似通った部分があることに気が付いてしまった。

参った、弱った、恥ずかしい。

よもや還暦を迎えんとする年に、自分の厭らしい部分に気が付くなんて思わなかった。どれだけ客観的な自己認識が出来てないのかと赤面している。

そんな訳で、この本は読まないように。どの短編で気が付いたのか、当てられるともの凄く恥ずかしいので、ほっておいて欲しいです。
コメント (2)
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