いつか来る日だと覚悟はしている。
難病の難病たる所以は、治療法が確立してないだけではない。原因が分らない故に、いつ再発するかが分らないところが難しい。
この春で、ついに25年目を迎えたが、今でも二ヶ月に一度の外来診療は欠かせない。病状は外見的には分らないが、詳しく検査しなければ分らない程度には安定している。だから、ほぼ健常者として生きていられる。
だが、完全に治ったものではないことは、今でもしっかりと自覚している。何度も再発の憂き目にあっているので、過労と感染症に注意していれば、或る程度再発を防げると信じている。ありがたいことに、ここ十年以上再発はしていない。
それでも不安は拭えない。再発のなかには、原因が思い至らぬケースも多々あったからだ。いろいろ調べてみても、やはり原因不明の再発は少なくないらしい。
だが、予想されることならば、それ相応の対策を練ればいい。その覚悟だけはしている。心に枷をはめられたようなものだが、その枷自体はそれほど苦痛ではない。哀しいことに、馴れてしまったからだ。
それでもやはり恐れていることがある。
いかに副作用がきつくても、薬が効くうちは対処できる。では、薬が効かなくなったらどうする?
私はその場合の結果を知っている。幾人か、そのような同病の患者を見て来たからだ。全身の筋力が衰え、やせ細り、寝たきりになり、やがて多臓器不全で死んでいく。
怖いのは、身体よりも心の衰えだ。治らぬことを自覚し、介助なしでは身動き一つとれぬ寝たきりの生活は、間違いなく心を蝕む。
弱った心が現実を認めることを拒否したとき、人は幼児に戻る。精神の退行現象が起きるのだ。多くの場合、幸せだった頃の記憶にすがりつく。だが、目が覚めて現実に気がつくと、やりきれぬ苛立ちから逃れられない。
私は耐えられるだろうか?正直、自信はない。
表題の本は、あまりに有名でいまさら取り上げるのも気が引ける。人はいつかは死ぬものだ。どうせ死ぬなら、笑顔で穏やかに死にたい。
そう思うと、もしかしたらチャーリーは幸せなのかもしれない。失った悲しみや絶望すら忘れて、無邪気な笑顔で人生を終えることが出来るのだろう。
異論はあると思うが、他人の目線を気にせず、自分だけの殻に閉じこもるのならば、笑顔で死を迎えるのは幸せなことだと思う。
ただ、墓石に花束を置いてくれる人が少しは居て欲しい。死ぬのは仕方ないが、忘れ去られるのは死ぬよりも辛いことかもしれない。
だからこそ、アルジャーノンに花束をと、書き残したのだと思う。知性が衰えていくなかで、それだけは覚えていたのだろうな。
私は散骨が希望なのだけれど、やはり墓所は必要みたい。死ぬ覚悟はできても、忘れ去られる覚悟はできそうもありません。
難病の難病たる所以は、治療法が確立してないだけではない。原因が分らない故に、いつ再発するかが分らないところが難しい。
この春で、ついに25年目を迎えたが、今でも二ヶ月に一度の外来診療は欠かせない。病状は外見的には分らないが、詳しく検査しなければ分らない程度には安定している。だから、ほぼ健常者として生きていられる。
だが、完全に治ったものではないことは、今でもしっかりと自覚している。何度も再発の憂き目にあっているので、過労と感染症に注意していれば、或る程度再発を防げると信じている。ありがたいことに、ここ十年以上再発はしていない。
それでも不安は拭えない。再発のなかには、原因が思い至らぬケースも多々あったからだ。いろいろ調べてみても、やはり原因不明の再発は少なくないらしい。
だが、予想されることならば、それ相応の対策を練ればいい。その覚悟だけはしている。心に枷をはめられたようなものだが、その枷自体はそれほど苦痛ではない。哀しいことに、馴れてしまったからだ。
それでもやはり恐れていることがある。
いかに副作用がきつくても、薬が効くうちは対処できる。では、薬が効かなくなったらどうする?
私はその場合の結果を知っている。幾人か、そのような同病の患者を見て来たからだ。全身の筋力が衰え、やせ細り、寝たきりになり、やがて多臓器不全で死んでいく。
怖いのは、身体よりも心の衰えだ。治らぬことを自覚し、介助なしでは身動き一つとれぬ寝たきりの生活は、間違いなく心を蝕む。
弱った心が現実を認めることを拒否したとき、人は幼児に戻る。精神の退行現象が起きるのだ。多くの場合、幸せだった頃の記憶にすがりつく。だが、目が覚めて現実に気がつくと、やりきれぬ苛立ちから逃れられない。
私は耐えられるだろうか?正直、自信はない。
表題の本は、あまりに有名でいまさら取り上げるのも気が引ける。人はいつかは死ぬものだ。どうせ死ぬなら、笑顔で穏やかに死にたい。
そう思うと、もしかしたらチャーリーは幸せなのかもしれない。失った悲しみや絶望すら忘れて、無邪気な笑顔で人生を終えることが出来るのだろう。
異論はあると思うが、他人の目線を気にせず、自分だけの殻に閉じこもるのならば、笑顔で死を迎えるのは幸せなことだと思う。
ただ、墓石に花束を置いてくれる人が少しは居て欲しい。死ぬのは仕方ないが、忘れ去られるのは死ぬよりも辛いことかもしれない。
だからこそ、アルジャーノンに花束をと、書き残したのだと思う。知性が衰えていくなかで、それだけは覚えていたのだろうな。
私は散骨が希望なのだけれど、やはり墓所は必要みたい。死ぬ覚悟はできても、忘れ去られる覚悟はできそうもありません。