ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

由美かおるの卒業

2010-04-15 17:33:00 | 社会・政治・一般
今でこそTVは、ほとんど観ないが、子供の頃は当然にテレビっ子であった。

子供にとって、微妙に困るのがお色気シーンである。小学校半ばまではそれほど意識しないが、やはりあれは困る。母親と妹2人と一緒にテレビを観ていたものだから、殊更困る。

関心があっても、それを顔に出すわけにもいかない。目をそらすのも空々しい。だから、平静を装っているが、どこかぎこちない。

そんな苦境に私を追い込むのが、国民的長寿番組である「水戸黄門」だった。もちろん、由美かおるの入浴シーンが原因である。誰が忘れられようか。

ところが、先週なにげにTVを付けたら、その由美かおるが入浴シーンを卒業すると放送していた。「卒業」って言葉、こんな風に使うのかどうか、いささか疑問だが、それでもいささか感慨深いものがある。

冷静に考えると、お色気シーンといってもたしたものではない。少なくても私は、子供の時分に恥ずかしく感じたことはあっても、あの場面で欲情したことはない。

でも、あれは30年以上昔のことである。あれからず~と入浴シーンを続けているのは、やっぱり凄い。芸能人が身体のメンテナンスに力を入れることは分るが、身体の線を変えずに持たせるなんて出来るのか?

高校生の頃、由美かおるのヌード写真を平凡パンチで見たが、実に身体のラインの綺麗な女性であった。当時で既に20代後半だったと思う。

それから十数年たって、ヨガの本に由美かおるがモデルとして出ているのを見たが、身体のラインがほとんど変っていないのに驚いたことがある。当時40代半ばだったと思う。

人間か?

人間、年をとれば固く締まった筋肉は、いつのまにやら脂肪にかわってだらしなくたるむ。体重は同じでも、中味が変ってくるので、自然とプロポーションは崩れる。代謝機能も衰えてくるので、自然と脂肪が張り付き体つきも丸くなる。

節食に努めても、筋肉が細くなるのを避けるのは難しい。脂肪が十分になければ筋肉のほそさがプロポー[ションに弛みをつけるのは必然だ。

それにもかかわらず、由美かおるのプロポーションは、若い頃とほとんど変っていないそうだ。本当かいな?!まぁ、芸能人のことだから、多少の誇張や誤魔化しもあるやもしれない。そのほうがファンは喜ぶからいいけどね。

我が身を省みれば、近年身体の線が崩れてきている。スーツの着心地が変ったので、間違いなく体つきが変ってきている。体重増加はわずかだったはずだが、筋肉の張りが失われ、脂肪の弛みに変っている予兆なのだろう。

くわばら、くわばら。少しは運動しなくちゃ駄目ですね。
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セクサロイド 松本零士

2010-04-14 17:47:00 | 
私は人工知能に関しては否定的だ。論理を数式に置き換えることは可能だと思うが、感情を数式に置き換えるのは無理だと思っている。

実のところ、知能とはいかなるものであるかの定義さえ、未だ議論の途上でさえある。このあたりの研究はアメリカが最先端を走っているが、軍事関連が多くて情報はすべて公開されているわけではない。それでも、未だ完成に程遠い分野であることは、よく知られている。

もし仮に人工知能が作られるとしたら、それは人間とは異なる思考方式を持つ知能であろうと思う。もしくは、人間の脳のコピーのような形での人工知能にならざる得ない。

だが、コピーでさえ現時点では不可能だ。人間は二進法で考えるのではない。驚くほど多元的に考え、その記憶の仕組みさえ単純ではなく、多層的かつ多元的だ。複写の受け皿さえ複雑すぎて設計できない。

それでも人は、人を創ることを止めないだろう。部分的な人工内臓なら既に実用化されている。しかし、人工心臓でさえ未だ十分とは言えず、他の臓器ともなると、未だ実験の域を出ない。

そのせいか、近年は人工臓器の開発よりも、他の人間の臓器を移植する手法が中心だ。倫理的な問題もそうだが、免疫抑制剤の服用など実用上の問題も多い。

それでもチャレンジすべき未知の分野として、多くの研究者が挑んでいる。

表題の漫画は、70年代に描かれたSFものだ。性交渉が可能なアンドロイドゆきと、彼女のパートナーである諜報員シマが主人公だ。当然にエッチな場面も多く描かれているのだが、なにせ松本零士である。あまりいやらしさは感じない。そのせいか、朝日ソノラマ文庫で改めて文庫化されて、一般の漫画の書棚で売られていた。

私が高校生の頃にまとめ買い(但し、全4巻)したのだが、なぜかもの凄く記憶に残った不思議な短編集だった。男性の欲望を実現化したかのようなアンドロイドゆきだが、その機能はセックスを含めた身体能力よりも、むしろ内面の思考機能の向上にこそあった。

それは相手の気持ちを察する能力であり、肉体的欲望よりも精神的欲望を満足させるように優先的にプログラムされた成果なのだろう。これは男女の立場を超えて誰もが必要とされながら、誰もが十二分に有しているとは言いがたい貴重な能力だと思う。

それが他のアンドロイドとの最大の違いであり、だからこそ他の女性型アンドロイドから敵視された。もちろん人間の女性からも敵視される。

最後は人工生命体と人間との共存の可能性を示して漫画は終わった。人工生命体の優劣を、その身体能力ではなく、気持ちや洞察力といった形で示したことが、なによりも私の記憶に残っている。

果たして人類は、心の優しさや包容力といった数値化しずらい能力まで人工知能として作ることが可能なのだろうか。最初に述べたように私は懐疑的だ。なぜって、現時点でさえ使いこなしているとは言いがたいものを、理想的な形で作れるはずがない。

それはそれで情けなく、また哀しいことでもあるのですがね。
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春の選抜高校野球と暴言に思うこと

2010-04-13 09:24:00 | スポーツ
春の高校選抜野球大会が嫌いだ。

夏の甲子園なら分る。日本各地の厳しい予選を勝ち抜いたチームが頂点を目指して戦う。眩しい日差しの下、汗を拭いつつも渾身のボールを投げ込むピッチャー。その球を鋭く振りぬくバッターは、当たり損ねであったとしても、わずかな可能性を信じて全力で走りこむ。

夏の高校野球は、見応えのある熱戦が連日続く。野球への関心が薄くなった私でも、街頭TVの前で若者たちの熱き戦いに足を止めることは珍しくない。

しかし、春の選抜は嫌いだ。なんだよ、その選抜って。どこの、どのお偉方がお選びになりやがったんだ?

大体が、なんだってこんな中途半端な時季に全国大会をやるのか分らん。進級の時季であり、卒業の時期でもある。野球に限らず、どのクラブだってレギュラー陣が変り、新たなチームとしてスタートを控えた時期でもある。

しかし、高校野球を仕切る高野連にとっては稼ぎの時期でもあるらしい。夏の大会一度きりでは、その欲望を満たせないようだ。

はっきり言えば、春の選抜高校野球は、高野連の金儲けのためにこそある。私は昔からそう信じている。年に二回稼ぎたいなら、サッカーのように冬にやれ。進級、進学の時期は学生にとって大事な時期でもある。その大切な時間を大人の金儲けに濫用するな。

先月は忙しいかったので、読み流したニュースだが、とりわけ思い出すだけでムカつくのは、あの暴言騒動である。

21世紀枠とかいう、訳の分らない基準で出場したチームに負けてしまった開星の野々村監督の暴言騒ぎである。たしかに乱暴な言い様だとは思う。たしかに失礼な話だとは思うけど、それほど大騒ぎするニュースなのか?

私が運動部の世界に馴れているせいもあるが、あの程度の暴言騒ぐようなことなのか理解できない。

高野連が気にしたのは21世紀枠の意義を疑われたことだろう。この組織はプライドが異常に高いので、批難、批判に過剰に反応することで悪名高い。

冒涜されたとされる相手の高校の気持ち?バカ言うもんじゃない。勝った奴は負けた奴のグチなんざ聞き流すのが筋だ。

私が一番不愉快だったのは、鬼の首とったように暴言を批難して善人ぶるマスコミ様だ。どこの何様だ、あんたらは。負けた奴が口にする暴言なんざ数多或る。それをいちいち取り上げたらキリがない。

この時季がいささかニュース枯れとなり、なにか紙面を飾るネタが欲しかっただけだろう。もしかしたら、この暴言報道で高校野球の倫理的質を高める貢献をしたとでも自惚れているのかもしれない。

どうせ報道するのなら、春の高校選抜野球の意義に疑問を呈示してみろ。その選抜基準を公開させ、21世紀枠の有意性を調べてみろ。

まったく安直な仕事ばかりしおってからに。
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ヒトクイマジカル 西尾維新

2010-04-12 12:26:00 | 
少し前に、再読は避けるといいながら、ついつい戯言シリーズ全巻再読してしまった。

いや、それどころか外伝である零崎シリーズまで読んでしまった。先月末に一挙に4巻発売された零崎人識4部作である最終巻まで読んでしまったほどだ。かなり売れたようで、書店の売上ランクを独占していたので、目にした人もいるかもしれない。

でも、手にとって読んだ人は少ないでしょうね。若い人には絶大な人気を誇る戯言シリーズですが、大人とりわけ40代以上の年齢層だと、読まないケースの方が多いと思う。

イラストが目に付くライトノベルであることが最大の理由だと思うが、少しもったいない気もする。以前から書いているとおり、この著者の日本語の独特さは一読の価値はあると思っているからだ。

ところで、なぜに若い人たちから支持されるのであろう?

実のところ、私は分らなかった。もっと読みやすいライトノベルは数多ある。しかしながら、この戯言シリーズはくどい言い回しと饒舌に過ぎる長編であるにもかかわらず、若い世代から圧涛Iな支持を受ける。

外伝の最終巻を読んで、おぼろげながらその理由が分った気がする。

この戯言シリーズには異形の登場人物が沢山登場する。いや、登場人物の大半が異常なキャラクターばかりだ。むしろ普通の人のほうが少なくて、少ないゆえに目立つくらいだ。

理由なき殺人鬼、目的を持たない天才エンジニア、頭がいいだけの天才学者など、身近にいたら迷惑な人たちばかりが登場する。なかでも一見、普通の青年である主人公が一番異常だ。

人間失格といわれた理由なき殺人鬼から、もう一人の自分だと言われるほど異端の人間なのだ。第一巻はともかく、第二巻で私は、こいつ大嫌いだと公言できるほど、嫌な奴である。ちなみに呼び名は、いーちゃんである。嫌な奴、いーちゃんとは、著者もなかなかに皮肉屋だ。

並外れた、いや、度を越した頭のよさを持つ主人公は、それを自覚しつつも社会とのかかわりを避ける。逃げると断じてもいい。それどころか、他人との付き合いを避け、心を開くことをしない。しかも、それを巧みに誤魔化す狡賢さまで備えている。

その嫌な奴である主人公が、はじめて本音を叫び、逃げようと必死になり、本性を露にする。その主人公を立て直したのは、主人公が蔑む普通の人たちであった。普通の人たちの、当たり前の思いを受け止め、逃げるのではなく、自分の人生に堂々立ち向かうことを決意する。

自分は特別であると思っていた主人公が、ここで始めて普通の人間として、堂々向き会って生きることを決断する。これは自意識過剰であることが当たり前の青年が、大人への階段に足をかける第一歩なのだ。

この戯言シリーズが若い読者から支持されるのは、このあたりだと思う。若い頃は、どうしたって自意識過剰となる。自分は、自分だけは特別だと無意識にも考えたくなる。

この過剰な自意識を脱ぎ捨て、無防備な自分を社会にさらす覚悟が出来た時、それが大人への第一歩でもある。若い読者は、主人公の成長に自分を重ねてみているのかもしれない。

表題の作品中で、いーちゃんは虚飾の仮面を脱ぎ捨て、素顔で現実と向き合うことを決断する。私がシリーズ中、一番好きなのは、この巻であることは言うまでもない。

ライトノベル独特の漫画チックなイラストは、とりあえず無視して、一度は読んで欲しいと思います。
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はいからさんが通る 大和和紀

2010-04-09 12:52:00 | 
暗黒時代。

歴史に関する本を読んでいると、時折目にする言葉だ。若い頃はなぜに暗黒時代だと称されるのかが分らなかった。今なら分る。過去を貶め、理想を輝かそうとする意向のもとで使わる言葉こそが「暗黒時代」なのだと。

典型的なのが中世ヨーロッパを暗黒時代だとするケースだ。これは中世がキリスト教の価値観に縛られた時代であり、ルネッサンス以降の自由と理性を重んじる立場から、過去を誹謗し現在を誇るがゆえに使われる。

日本の場合だと明治末から昭和初期を称して暗黒時代だとすることが多い。この時代は日清戦争から太平洋戦争に至る時代であり、軍部優先の暗い時代であったと決め付けられる。

本当にそうなのか?

山本夏彦氏のエッセーなどを読めば分るが、この時代決して暗いばかりではなかった。むしろ、軍部(戦争)=暗いと決め付けるほうが、よっぽど時代を歪めて伝えている。

日清戦争は日本が大国へと成り上がる契機となった戦いであり、日本国中その勝利に沸きかえったのが実情だ。日露戦争は、大国ロシアに勝った歴史的勝利であり、当然に日本のみならず世界中から高く評価された。

もちろん、勝利に沸く歓喜の裏には、愛する家族の戦死を悼む哀しみもあった。だが、お国のために死して尽くしたのだと、その悲しみを塗布することも出来た。悲しみは哀しみとして存在したが、同時にいつか自分もお国のためにと胸に誓う青年も多かった。

でも、愛する人を戦場で失った悲しみにくれる母親や妻、恋人だっていた。そのことを忘れるべきではないが、だからといって暗黒時代だと一律に否定するのはおかしい。それでは事実がみえなくなる。

この時代は近代日本の第一期高度成長時代でもある。人々の気持ちは未来に向けて明るく華やいだものであった。相対的に評価するならば、まちがいなくこの面のほうが大きかったと思う。

もちろん、幾つもの戦争を経て勝ち得たものである以上、その犠牲となった若者の命を忘れるべきではない。でも、その犠牲の上に繁栄が築かれた現実も押し隠すべきではない。

表題の漫画は、私が十代の頃にヒットした。主人公が女性である以上、どうしても戦争を否定的に描くのは仕方ない。でも、主人公の明るく前向きな生き方は、あの時代の特徴でもあった。あの時代こそ、近代日本において女性の社会進出の第一歩が刻まれた。

本当に暗黒時代であったならば、決してあのような生き方はできるわけない。暗黒時代という言葉が使われているならば、よくよく注意してみる必要があると思う。
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