ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

宇宙海賊キャプテン・ハーロック 松本零士

2013-09-12 12:01:00 | 

夢を追い続けることは、必ずしも美しくない。

宇宙戦艦ヤマトや、銀河鉄道999などのヒットで知られる漫画家の松本零士は不遇であった。私は1960年代、まだ彼が松本あきらと名乗っていた頃から知っているが、実に残念な漫画家であった。

長編が中途半端、その一言に尽きる。特に作品中に伏線を多く張りながら、その収束にはよく失敗している。これは一概に松本零士の責任とは言えないところもあるのは、掲載した雑誌が廃刊となったり、編集方針の変更から打ち切りになったことが多々あるからだ。

だからといべきか、長編漫画とは無縁の作家であった。実際に長編と云えるのは銀河鉄道999以前は「男おいどん」ぐらいではないだろうか。逆に短編漫画には傑作が多い。だから私は一時期、松本零士の短編集を買い漁っていたことがある。特に昆虫をテーマにした「インセクト」などは大好きであった。

また長編というより短編の連作に近かった「セクサロイド」や戦場漫画シリーズも大好きで、中学生の頃は熱中していたものだ。ただ、短編には傑作が多いと思っているが、気になることもあった。

なぜなら短編漫画には時たま、作者の怨念が漂っているように思えて仕方なかったからだ。未完で終わった作品の主人公たちが、時を変え、場所を変え、唐突に脇役として登場することがよくあった。それは彼が描きたかったものが、描ききれなかった恨み節のようなものであった気がする。

この未完作品の主役たちが短編に登場してしまうと、なんとなく私は恨みがましい気持ちを察してしまい、作品そのものに対する興が薄れることが多々あった。その代表的存在が、宇宙海賊ハーロックであった。

長年松本漫画を読み続けてきた私だが、ハーロックに関しては懐疑的だ。作者の言いたいこと、託したい想い、読者に問いかけたい情熱、様々な主張が重なり合って、かえって主題がぼけているように思えてならない。

私には、ハーロックのうっ憤、矜持、情熱が、失敗したマルクス革命に未練を残す元・学生運動家の未練に思えてならないのだ。思うに当初のハーロックは、太平洋戦争から負けて帰国しても、維新後の武士のように、貧すれど矜持を失わない誇り高き日本人をモデルにしていたと思う。

ところが、かつて社会主義の理想を思い求め続けながら、資本主義の抱擁に身を任せた戦後のサラリーマンたちへの恨み節をぼやく、落ちぶれた左翼活動家にハーロックが被ってみえてならなかった。まるで共感できなくなってしまったのだ。

ハーロックの行き着く先に、いったい何があるというのか。私に想像できるのは、空虚で空々しく、虚しさだけが待っているように思えてならなかった。

松本零士は九州男児だという。それはなんとなく分かるが、時として夢を追い続けるというより、依怙地な自分に拘り続けるだけの意地っ張りに見えてならない。キャプテン・ハーロックに怨みはないが、なんとなくヒットしてはいけない漫画だと考えています。

コメント (7)
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福島原発事故、検察不起訴処分に思うこと

2013-09-11 11:59:00 | 社会・政治・一般

当初から立件は難しいと思っていたので、意外な結論ではない。

ただ感情的に納得のいかない人は少なくないだろうと思う。私自身、あの規模の地震の予測はあっても、あれだけの津波被害は想像すらしなかった。だから予見不可との判断は理解できる。

しかし、ここで問われるべきは被害直後の対応の拙さであろう。東京電力の社長以下役員の対応は決して褒められたものではない。また原子力規制委員会の醜態は恥さらし以外のなにものでもない。

だが、なんといっても不愉快極まりないのが当時、首相であった菅直人である。結論からいえば、緊急時にトップであってはいけない人であったとしか言いようがない。今少し、当時の官邸がまともな対応をしていれば、あそこで被害は深刻化しなかったのではないか。

そう思う人が少なくないからこそ、今回の検察庁の不起訴処分の決定に不満を持つ人が多いのだと思う。だが、私は思う。菅直人を首相の席に送り込んだのは、なにより変化を望んだ有権者の意志があってこそだろう。つまり民主主義が菅直人を首相に望んだともいえる。

今さらながら思うのだが、社民連の泡沫候補から這い上がり、新党さきがけで機先を制し、自社連立政権において厚生大臣の座を得る、まさに成り上がりであり、恐るべき強運の持ち主である。

そして、橋本内閣における厚生大臣の時の「薬害エイズ事件」こそが、菅直人を虚構のヒーローに祭り上げた大舞台であった。ないとされていた「郡司ファイル」を見つけだし、厚生省の欺瞞を暴きだし、ミドリ十字の役員たちを引きずり出し、官僚OBの悪意ある作為を公衆の面前に曝しだした。

多くの日本国民は、この菅直人のスタンドプレーに拍手喝采を送り、この一事をもって彼は大物政治家への第一歩を刻んだ。だからこそ民主党政権における二番目の首相として菅は総理の座に就いた。

ここで改めて、菅直人の転換点となった「薬害エイズ事件」を振り返ってみたい。

HIVへの感染の危険性を秘めていることを知りながら、当時の厚生省はOBが社長を務めるミドリ十字社への指導を怠った。重要な天下り先を守るだけでなく、厚生省の利権を国民の生命よりも重んじたわけだから、それ相応の罰があってしかるべきである。

その罪を隠しきれなくなったとき、首相の座にあったのは、あの橋本龍太郎である。何故かマスコミは黙っていたようだが、橋本は長年厚生族と云われた族議員であり、当時は厚生族のドンでもあった。

菅直人のスタンドプレーを許し、厚生省OBの国会議員の罪を問うたあの「薬害エイズ事件」で、橋本自身は無傷である。他にも数人自民党の大物及び医師会の大物がかかわっていたはずだが、帝京医大の安陪を追い込むだけで、問題を収束させてしまった。

私からすると、菅直人は橋本の掌で踊っていた役者に過ぎず、自民党厚生族の大物たちは傷つかず、厚生省の利権構造も抜本的是正はされず、医師会との癒着問題も先送りにされた。まさに策士・橋龍の思惑通りであった。証拠はないが、菅は知ってて踊っていたと私は邪推する。

だが彼らは受益者であり、自らの利益を守るために奔走しただけだ。私が許せなく思うのは、知っていながら報道を避けたマスコミである。橋龍が厚生族のドンであることを彼らマスコミが知らぬ訳がない。

それなのに、厚生族のドンの責任を追及した大手マスメディアが一社でもあっただろうか。彼らは知っていたはずだ、菅直人は舞台で踊る猿回しの猿に過ぎないことを。しかも確信犯の猿である。少なくても菅直人が橋龍の責任を追及することは、あの当時は避けたことは間違いのない事実。猿回しの猿より性質が悪い。

だが、マスコミはこの「薬害エイズ事件」でようやく左派政治家のスターを手に入れた。猿回しの猿であっても、菅直人はこれまで望んで得れなかった期待の星となった。

実はその後、菅直人は未熟な実力を露呈している。もう忘れられていると思うが、あの「0-157とカイワレ大根」事件での失言と失政で第二次橋本内閣では、せっかくの大臣の座を追われている。でも、マスコミ様は彼を追及することを避け、ようやく得られた期待の星を温存した。

あの時のカイワレ大根への誤った風評被害は長く尾を引き、生産農家に大きな打撃となったが、マスコミ様は黙殺した。おかげで本来、大臣のような責任ある職を担うには実力不足であった菅直人は温存されてしまった。

彼は政界を追われるべきであったと私は思う。しかし、マスコミ様の隠ぺいがあり、虚構のヒーロー菅直人は政界に生き残ってしまった。その挙句が、東日本大震災と福島原発事故であった。

口先だけで綺麗ごとを並べることは得意だが、いざ現場の陣頭にたっての危機管理は出来るはずのない人が、あの大災害時に首相の座にあった。これこそが最大の悲劇であった。被災した国民にとっては悪夢であり、その責任を問う声が上がるのは必然であった。

でも無能な人間が首相の座にあって、無為無策を繰り返したことを法的に責任を問うことは出来ない。これは民主主義が負うべき責任であり、菅直人に、そして民主党に投票した有権者すべてが負うべき責任でもある。

そして、絶対に忘れてはいけないのは、菅直人を虚構のヒーロー政治家に祭り上げたマスコミの責任である。マスコミが如何に無視しようと、私は忘れてやらないぞ。

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四日間の奇蹟 浅倉卓弥

2013-09-10 15:46:00 | 

降りるべき駅に着いてしまったのを恨むくらいの面白さがある。

私の読書はもっぱら電車の中であることが多い。この本を読んでいる最中、私は何度降りることを躊躇っただろうか。そのくらい、読み続けたいと思った本に出会えることは稀だ。

ありそうで、ありえないからこその奇蹟。願っても叶えられぬものが、目の前に現れた奇蹟。もう諦めていたはずのものが、今目の前にある奇跡。わずか四日間、たかが四日間のなかでの奇蹟。

多くの人が気が付かない奇蹟であり、わずかな人だけが生涯忘れる事の出来ない奇蹟。それが目の前に突如繰り広げられる四日間。まるで流れ星のように、さっと現れて、痕跡さえ残さず消えていく奇蹟。

偶然ですが、私がこの本を読むのに要した日数も四日間。その気になれば二日程度で読めた気もしますが、意地になって電車内での読書に拘ったので、四日かかった次第。400頁を超す大作ですが、この美しい流れ星を観たような爽快な読後感は稀だと思うので、機会がありましたら是非ご一読を。

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行政の度量

2013-09-09 12:20:00 | 社会・政治・一般

勉強の出来る馬鹿は始末が悪い。

昨今、法律の規定が恐ろしく緻密に、厳密に構成されていることが多い。特に税法にその傾向が強い。これまで明確に規定されず、慣行と行政の現場で判断されていたことが、法律により明文化されるようになった。

それはもちろん、行政の公正化を図り、能率を上げ、日本国民の公益に利するためになされたことだ。実際、その意図が明白であり、改善されたと思える部分だってある。だから一概には否定はしない。

しかし、税務行政の末端と常々交渉する現場にいる私からすると、「バカじゃないのか?!」と嘆きたくなることのほうが多いのが実情だ。最近私が耳にした話なんか、その典型であると思う。

現代の日本において金融資産の過半を握っているのは高齢者層である。この金融資産を若い世代に無償もしくは大幅に低コストで移転させて、社会の活性化を図る手法として導入されたのが、相続税の精算課税制度だ。

簡単に説明すると、高齢者が生前に財産を子供や孫にタダで渡すと、無償譲渡すなわち贈与とされてかなり高額な贈与税を貰った人は払わねばならない。そこで、後々相続税の申告時に精算することを前提に、生前に財産を子供たちに贈与させる。

贈与税は単年度課税であり、年間の非課税枠は110万円だ。しかし、相続税ならば非課税は現行(平成26年まで)5千万円プラス1千万円×相続人の数となる。この枠を相続時ではなく、生前に活かすことを認めて無税もしくは低額な税金で財産を子供たちに分ける。

育児や住宅ローンなどお金が沢山必要な世代に、早期に遺産分けを一部行うことで社会の活性化を図る目的で導入されたのが、この相続精算課税制度だ。

一応、言っておくと最終的には全ての生前贈与が相続に取り込まれるし、相続時に精算されるので必ずしも節税にはならない。ただ、事前に異常に高額(世界一とも云われる)な贈与税の負担を避ける意味では有意義だ。

また自分の死後の相続財産争いを避ける機能もある。節税にはなりにくいが、使い方次第で有益な手法だと私は考えている。

で、以下は又聞きの話なので詳細は分からないが、概ね事実なのだろうと思える話だ。

ある老夫婦が家を買おうとしている息子夫婦のために、この相続時精算課税制度を使った贈与を行い、土地と家屋を息子夫婦にプレゼントした。当然に、税務署で必要な書類をもらってきて、署名押印したうえで、贈与税の申告を無税で終えた。

ところがだ、数か月後税務署に呼び出された。添付書類が足りないので、奥様に関してのみこの無税の申告は認められないと。

いったい、どうしたことだと詳しく訊いてみたら、この相続時精算課税制度の適用を受けるためには、一定の書式の相続精算課税制度選択届出書の提出が必要だと言う。もちろん、それは説明を受けたし、提出したはずだ。

しかし、よくよく訊くと、この届出書にはご主人のものしか提出されていない。奥様の分も必要であり、それが申告期限までに提出されていないので、奥様については精算課税制度の適用は認められないと言うではないか。

ちなみに贈与税の申告書はそれぞれ夫婦別々に出しており、当然そのなかに精算課税適用の項目に記載はされている。それでは駄目なのか、たまたま届出書だけを漏らしてしまったので、これから提出すれば良いではないか。

数時間、粘って交渉したが、税務署の担当者は頑として認めず、高額な贈与税の納付が必要だと言い張るばかり。

困った老夫婦は、知人の税理士のもとを訪れて相談した。税務署のOBでもあるその税理士は、その話を聞くや憤慨して自ら税務署に乗り込み副署長や審理官らを相手に説得に努めたが、残念ながら税務署は結論を変えなかった。

法令の規定は厳密であり、その規定に従い申告期限までに届出書が出てない以上、その適用は認められない。これが今の官僚たちの態度である。

行政とは、四角い枠を、丸い桶で汲み上げることこそ肝要である。四角い隅っこは、取りこぼしになるが、そのくらいの余りがあるほうが上手く統治できる。これこそが古来よりの英知である。取りこぼした部分は、現場の役人たちが世間知でまるく治めることで、世の中を上手く回していた。

しかし、今のお勉強の良く出来る官僚たちは、世の中すべてを自分たちの作った法律でガチガチに締め上げようとする。法令を厳密に造り、最初から取りこぼしがないように余裕がない規定を作る。

そして、その枠に収まらぬ場合は問答無用で切り捨てる。枠に納めない国民が悪いのであって、自分たちは法令通りにやっているだけで責任はないとでも言いたいのだろうか?私にはそう思えてならない。

ちなみに上記の件だが、ベテランの税理士の知恵が勝った。届出書が期限を過ぎていて適用が認められないのなら、贈与契約そのものを錯誤として登記抹消して、元の状態に戻してしまった。

登記費用はけっこう掛かったが、高額な贈与税よりはるかに安い。妻の分は来年改めて申告し直すことで問題を解決してしまった。高額な贈与税をとれると思っていた税務署側がどう思ったのかは知らないが、意地の悪い私には少々痛快な思いであった。

でも、よくよく考えてみると、この案件非常に馬鹿らしい。そもそも立法趣旨に照らしてみれば、税務署は単なる届出書の漏れとして許容すればいいだけだろう。精算課税の適用の意志は明確であり、そこに課税回避や脱税、脱法の影は見えない。

木を見て森を見ず。行政の在り方が、勉強バカの跋扈により、ますますおかしくなっているように思えてなりません。

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夏のナマケグマ

2013-09-06 15:07:00 | 日記

暑さに負けた。

実は当初、8月に現在空き家となっている実家に転居するつもりであった。5月の連休は体調悪くて断念したので、少しづつ準備をしてからの引っ越し計画であったが、7月に始まった猛暑が壁となった。

あまりに暑すぎて、まず私の本性でもあるナマケグマが出てきて片付けをさぼり出した。せっかくの休日も暑さを言い訳にして、ゴロゴロと怠けるばかり。体内の結石を排出せねばと、せっせと水をがぶ飲みしていたのだが、腹いっぱい水を飲むとお腹が重くて眠くなる。

タプタプいってるお腹に手を当てながら寝ころび、汗をかいたら結石は出てくれないよと言い訳しながら連日ナマケグマの本性丸出して寝ころぶ。おかげで夏バテこそしなかったが、夏太りする有様である。

これではイカンと最近は夕方、軽くジョギングしてストレッチに励むよにしている。ただし涼しいことが要件なので、せいぜい週1日が限度である。汗を流して体重減ってヨシヨシなのだが、肝心の引越がお留守である。

意外というか、予想したよりも体力は落ちていた。日常生活では手術後の一時を除けば、ほとんど体力の衰えは感じなかった。しかし、ほんの短時間でもゆっくりとジョギングしただけで疲労度が格段に違う。

だから走るのは10分程度に留めて、柔軟とストレッチに重点を置いている。これだけでも、いや、これだけなのにものすごく疲れる。帰宅してシャワーを浴びると、30分は横にならないと夕食の支度に取り掛かれない有様だ。

これでは夕食後に引っ越しのための片付けなんて不可能。

で、挫折感を抱えているかというとそうでもないのがナマケグマのいいところ。これ幸いと家の片隅に山をなしている未読の本の踏破に取りかかる。これなら寝っころがりながら出来るしね。

そんな訳で、この夏はけっこう本が読めた。それは嬉しいのだが、肝心の引越はまたも先延ばしである。どうも仕事でないと私は怠けがちである。ゴロゴロ、ゴロン。

まァ、これはこれで幸せなんですけどね。

コメント (6)
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