ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

法人税減税に思うこと

2013-09-05 12:07:00 | 経済・金融・税制

法人税を下げるべきか。

企業経営者にとって税金は、安ければ安いほどイイ。それが本音だが、実は全てではない。今に始まったことではないが、またまた法人税の減税を求める声が、市場をゴソゴソと駆け回っている。

その予定はないと政府が否定した途端に株式市場が大きく値を下げる有様である。おかげで自民党の政府高官数名が、どっちつかずの弁明をして言い訳している様は無様に過ぎる。

今回の法人税減税の言いだしっぺが誰かは知らないが、儲かって仕方のない一部の企業経営者の歓心を買ったことだけは確かだろう。

実は平成10年以来、法人税は実質減税の方向に向かってノコノコ歩んでいるのが実態だ。法人税が下がった背景にあるのが、旧・大蔵省が打ち出した外資の導入である。

もっといえば、企業が法人税の高い日本を嫌って海外に出ていくことを防止する意味合いさえある。私が聞き及ぶ範囲では、旧・大蔵省はなにより企業の海外脱出を恐れていたらしい。

ただ、それでいて思い切った税率の引き下げをするだけの勇気はなく、相も変らぬ言い訳みたいな小出しの税率引き下げで誤魔化していた。私が「ノコノコと・・・」と蔑むような言い方になるのも、この戦力小出し戦術の愚かさを嘲笑ってのことだ。

以来15年が経ったが、実のところ法人税の高さを嫌って企業が国外に脱出したケースは、ほとんどない。生産拠点を東南アジアに移すケースは多かったが、これは円高と安い労働力を求めてのことで、法人税の高さが原因ではない。

また外資が日本進出するにあたり考慮するマイナス要因は、土地、人件費の高さであって法人税の高さではないらしい。

企業が負担する法人税が安ければ、それにこしたことはない。しかし企業は総合的に判断する。一見、法人税の税率が日本より低いヨーロッパでは、人件費に伴う社会保険負担が高額で、むしろ日本より高コストであるのが実情だ。

また東南アジア諸国は、政策的に法人税等を低く抑えて外資の導入を図っているが、非公式な資金負担(いわゆる袖の下、賄賂)が少なくなく、また社会資本(道路や港湾)が未整備でいくら人件費が安くても、結果的に高コストであることも珍しくない。

法人税の税率だけで企業は判断したりはしない。財務省はそれを分かっているので、いくら財界から減税の声が上がっても応じる可能性は低いと思う。

実のところ、納税者の日本脱出は一部の資産家に限定される。所得税の累進税率による高負担を嫌う場合と、相続税の高さを嫌う場合があるが、いずれも国内に不動産等の資産をあまり持たない資産家に限られる。

つまり資産は資産でも、移転が容易な金融資産を多額に持つ資産家だ。つまり日本の資産家の過半を占める土地持ち資産家は、海外に脱出することは稀だ。

一方、金融資産は逃げ足の速い資産であり、欧米、中東、アジア、アフリカの富裕層は、この金融資産を抱えて世界各国を飛び回る。タックスヘブン(課税回避地)に対する締め付けは、今後も続くが逃亡先はいくらでも作られる。

既に先進国間では、この逃げ足の速い資産家たちを如何に惹きつけるか、また課税回避を如何に防ぐかが問題になっている。日本もこの流れに沿うかたちで、今後の金融行政、税務行政が変わっていくと思われる。

だから法人税だけを取り上げての減税策には、あまり意味がないと思う。もちろん税金は安ければ安いほどイイとは誰もが思うことでしょうけどね。

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プロレスってさ ジプシー・ジョー

2013-09-04 11:57:00 | スポーツ

決して格好よくはなかった。でも男として敬意を抱かざるを得ないほどのタフガイ、それがジプシー・ジョーであった。

中肉中背で浅黒い肌と長髪を振り乱してのラフファイトが売りの悪役レスラーである。ジプシーとの売り込みであったが、実際はプエルトリコからアメリカに渡ったラテン系の人。

なにより印象的なのは、そのタフぶり。とにかく尋常ではなく、異様なほど頑丈な肉体を誇った。スチール製の椅子で、思いっきり叩かれると、スチールはひん曲がり、椅子はバラバラに壊れる。

あの人間離れしたタフネスぶりは、一度見たら忘れられない。さりとて決して筋肉お化けではない。骨太、肉厚の度合いが凄まじすぎて常識では測りかねる肉体であった。

またそのタフネスぶりは肉体だけでなく、精神面でも顕著であった。国際プロレスの売りであった金網デスマッチにおいて、金網の最上部からニードロップを落とす場面は半端ではなかった。空中殺法が得意なメキシカン・レスラーだって、あの当時はやっていなかったと記憶している。

プロレスラーとしては小柄であったが、肉厚な身体と気性の強さで巨漢たちの中にあっても気後れすることのない男っぷりであった。間違いなく、喧嘩は相当に強いはずだ。もっとも怖い人ではなく、試合が終われば町の片隅の居酒屋でビールを美味そうに飲んでいる気のよさそうなオジサンでもあった。

プロレスを仕事として楽しんでいる一方で、そのプロ意識は半端ではなく、若手のレスラーが手抜きの試合をしていると激昂して制裁を加えることもあった。しかも、半ば泣きながらである。「プロとして恥ずかしくないのか!」と叱られた若手レスラーが戸惑うほどであり、止めに入る他のレスラーも困惑気味であったのが懐かしい。

国際プロレスが潰れて以降は、馬場の全日本に登場するようになったが、小柄なレスラーを嫌がる馬場も、ジプシー・ジョーのプロ意識の高さは認めていたらしい。実際、どんな時でも全力プレーを怠らないド真面目な外人レスラーでした。

ただ一つだけ問題があった。ジョーはアマレスタイプ(吊りベルト型)のタイツを好んで着ていたが、なんとピンクの花柄なのだ。プエルトリカンだけに褐色の肌に薄い花柄のタイツは、どうみても似合わない。というか、はっきりいって格好悪い。

誰か注意してやれよと、子供心に思ったが、遂に変わることはなかった。だから人気レスラーとは言いかねたが、他に代わりがいない独特なスタイルであったために老年まで現役レスラーとして活躍していた。

この人を見るたびに、本物は生き残るんだと思った。派手さはないけど、忘れがたい名レスラーでした。

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閉架問題に思うこと

2013-09-03 11:58:00 | 社会・政治・一般
良識が問われる問題だと思う。

一部の県の図書館で、原爆被害の恐ろしさを伝える名著として名高い漫画の「はだしのゲン」が閉架措置が取られていると報道されていた。その記事を読んで、私は少し首を傾げた。

この漫画は戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを伝える作品として、漫画でありながら全国の小中学校に置かれたことで有名な作品である。なぜに閉架措置がとられたのか。たしか、物語の後半では日本兵がシナで婦女子を暴行する場面等があったので、そのあたりを配慮しての閉架措置らしい。

実はこの「はだしのゲン」という漫画が有名なのは前半部分だけだ。すなわち集英社の週刊少年ジャンプで連載されていた時のものである。原爆被害の凄惨さが目立ったがゆえに、耳目を集めたが後々人気は落ちて、連載中止となっている。

これは人気投票により連載を決めるというジャンプ独特のシステム故であり、この時点では特段恣意的な動きはなかった。

問題はこの後の連載である。日本共産党系の雑誌「文化評論」に連載され、その後日教組系の雑誌「教育評論」に移って最終回を迎えた。掲載される雑誌は、当時でさえマイナーなものであったので、全部読んでいる人は少ないと思う。

はっきり言えば、ジャンプ連載時代と、その後の連載では内容がかなり異なる。登場人物等には変わりはないが、明らかに反・天皇制度、反・アメリカといった色彩が色濃く出るようになった。もっといえば、天皇への憎悪が色濃く出た左派勢力の宣伝漫画に堕している。

今回、明らかにされた日本兵のシナでの暴行場面なんざ、明らかにねつ造、事実誤認、あるいは政治的偏向によるものだ。共産党の政治的主張に沿ったものであり、あげくには日教組の反日自虐教育路線に忠実な道具と化しているのが「はだしのゲン」の後半部分である。

私は太平洋戦争中、日本兵が清廉潔白であったなんて言う気はないが、シナ兵のみならずシナの一般大衆の日本人に対するリンチが壮絶で残虐なものであったことも知っている。はっきり言うが、シナの人民は、決してか弱い被害者ではなかった。

だからこそ、大陸へ渡って未来を夢見た普通の日本人たちを守るため、日本軍の進出(侵略、大いにけっこう)は日本大衆から大いに支持された。戦後の日本のマスコミが広めた嘘のなかでも、もっとも卑怯で性質が悪いのは日本軍の侵略に、多くの日本人が後ろめたい気持ちをもっていたというものがある。

これは敗戦を終戦と誤魔化すより性質が悪い。大陸での成功を夢見て海を渡った日本の普通の市民たちを襲う残虐非道なシナの馬賊や、暴虐な軍閥の残酷な横暴があったからこそ日本軍のシナ駐屯は支持された。当時の日本の民主主義は、日本軍をこそ支持していたのが歴史的事実です。

ただし、日本共産党や日本社会党など一部の人たちは、そのような状況に危惧を抱いていたことは事実。そして、その日本が負けた以上、次の日本を作っていくのはマルクス主義の正義であり、社会主義こそが新生・日本の道標となるはず。

それなのに、アメリカの横暴により大資本家は生き残り、あろうことかアメリカ式の資本主義が幅を利かす歪んだ日本となってしまった。そして日本の有権者たちは、金に目がくらんで、社会主義の栄光よりも拝金主義の悦楽にひれ伏した。

しかも、あの天皇どもは制度として生き残り、今も皇居の真ん中でぬけぬけと栄華を食んでいる始末である。いかに我々が社会主義の正義を叫ぼうと、選挙において愚民どもは我々を支持しようとしなかった。

こんな愚かな日本なんざ、徹底的に貶めてやる。だが大衆の支持は欲しい。だからこそ戦争責任を天皇と軍隊に押し付け、普通の日本人はその被害者であると洗脳する必要がある。

この目的のためには、「はだしのゲン」という漫画は最適な手段である。主人公のゲンに、戦争中の日本兵が如何に非道で残虐であったかを刷りこみ、天皇こそが戦争を主導した主犯であると断言させる。そうすれば、我々の理想に共感する日本人が増えるはず。

「はだしのゲン」を全国の小中学校に置け、全国の図書館に置くんだ。

ところが愚民には愚民なりの常識がある。あまりにえげつない残虐暴行をする場面が散りばめられた漫画を子供が読む場所に置くのは相応しくない。そう考える愚民は少なくなかったようだ。だからこその閉架措置である。

私は表現の自由は大切だと思う。しかし、人としての良識に照らしての閉架措置はあってもいいと考える。ジャンプ連載時代の第一部(友子の死と、ゲンの髪が生え始めたあたり)までは、戦争の不合理さとか、原爆の恐ろしさを知らしめる良書といっていい。でも、共産党系の雑誌や日教組の雑誌に連載されたものは成人指定したほうあいい。あれはエログロ漫画並みの低俗さであり、子供が読むにはひど過ぎる。

まァ、歪んだ善意からくる正義を振りかざす人たちは、自分たちの正義を良識に照らすことはしないと思いますがね。
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闇に抱かれた女 T・J・マクレガー

2013-09-02 12:02:00 | 

身体は一つ、でも心は一つとは限らない。

それが分かったのは20代の頃だ。治る目処が立たず、働くことも出来ず、ただ食べて薬を飲んで眠るだけの毎日は、私を狂気に追いやり始めていた。寝ても覚めても、病気のことしか脳裏に浮かばず、生きる価値さえ見いだせずにいた。

時はバブル景気の華やかな時だけに、狭い部屋に閉じこもっての惨めな境遇は私を追い詰めた。光が眩しければ、その光が作る影はより一層濃くなる現実を噛みしめていた。

太陽の下で汗を光らせる日焼けした肌に羨望を抱き、屈託のない笑顔に嫉妬を燃やし、何気ない労りの言葉に深く傷ついた。幸せを他人と競うことの愚かさは知っているはずだし、そもそもそれほど欲深い性格でもない。

それなのに、長きに渡る病気療養生活が、私の心を蝕んでいた。未来に希望を抱けない絶望が私を狂気に追いやりつつあった。一番辛かったのは、自分が狂気の淵を彷徨っていることを自覚できることであった。

狂ってしまえば、こんな煩悶から逃れられるのではないかと真剣に思い悩んだ。元来暢気な性分が私を狂気の淵へと転落することを防いでいることを冷静に自覚していた。それだけに、自身の冷静さが憎らしかった。

あの当時、私が一番恐れていたのは、私の狂気を他人に知られることだった。だからこそ、最も親しい友人には会えなかった。会えば本音が噴出する可能性を否定できなかった。そうなれば自分の狂気を気付かれてしまうことが怖かった。

本当は会いたい、話したい、話を聞きたい。狂おしいほどに切望していた。その一方で、会ってしまえば狂気を隠し通す自信がないことも分かっていた。だから会えなかった。

だからこそ、親しくはなく、さりとて無視されることもない相手と会うことが、当時の私に残された数少ない楽しみであった。幸い私には当てがあった。それが大学のクラブの後輩たちであった。

ふらりと大学を訪れ、OBとして部室に顔を出せば必ず話し相手がいた。偉ぶることもなく、ただ素直に話をし、長居することなく立ち去った。ただ、それだけの時間。深刻な話は一切しなかった。軽い世間話と山の話をするだけだ。

その僅かな時間は、私が狂気を表に出すことなく、普通に話が出来る貴重な時間であった。今だから分かるが、あの普通の時間を持てたからこそ私は狂気に染まることを避けられた。

白状すると、私は心のうちに狂気を孕みつつ、それを隠して平静に振る舞える事に、ある種の悦楽を感じていた。他人を騙す快感に近いものかもしれないが、悪意はなかった。騙す相手を傷つけようとは思わなかった。むしろ騙されてくれることに感謝をさえ感じていた。

身体は一つ、でもあの頃の私には狂った心と、冷静で暢気で淡々とした心が同居していた。

あれから20年以上たつと、大したことではなかったかのように思えるば、実際はかなり際どかった。親しい相手と会うのは浮ゥったし、家族とさえ距離を置かざる得なかった。そうしないと狂気が噴出することが分かっていたからだ。

私が狂気を抑え込むことが出来るようになったのは、病気が安定して症状がほとんど出なくなり、再発の可能性が大きく減退してからだ。朝起きて、夜寝床に着くまで一度も病気のことを考えていないと気付いた時、初めて狂気が我が身を去ったことが分かった。

私はなによりも、この平静を大切に思っている。だからこそ、病気の再発を異常なほど恐れている。

私は知っている。誰の心にも狂気の芽は息吹くことを。このような境地に至ったからこそ、私はサイコ・ミステリーには虚心でいられない。表題の作品の犯人もまた、私と同じく狂気と平静を一つの身体に住まわせている。

誰からも気づかれることなく、狂気を隠し通し、平時には優秀に仕事をこなし、日常生活を淡々とこなしていく。その狂気を暴走させてしまったのは、犯人が隠していた秘密に気が付いた被害者がいたからこそだろう。

だが、もう一人キーパーソンがいる。それは犯人の心に最も深く寄り添った、寄り添ってしまった恋人だ。皮肉なことに、最も親しくなった相手にこそ隠したいのが己の狂気。でも、自分を一番理解して欲しい相手でもある。

こんな時こそ狂気は暴走してしまうものだ。それが分かるだけに、この作品はちょっときつかった。でも、ミステリーとしては良作なのも間違いなし。機会がありましたら是非どうぞ。

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