ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ゴースト・イン・ザ・シェル

2017-04-14 13:50:00 | 映画

今さらではあるが、人間の想像力って凄いと思う。

表題の映画の原作である、士郎正宗の「攻殻機動隊」が書かれたのは、1988年である。まだインターネットは始まっておらず、日本では銀行が第三次オンラインを構築し終えた頃である。

知らなければ、インターネットが世に出てから描かれた作品だと思い込むこと請け合いだ。如何に、この作品が先駆的であったかが良く分かる。実際、士郎正宗は、日本ではSFファン限定なところがあるが、初期の「アップルシード」の頃から、欧米で評価の高い漫画家であった。

いささか不幸なことに、士郎の絵柄は明らかに大友克洋の影響が強く、その亜流と見做されることも多かった。今だから分かるが、明らかに方向性が異なるし、細緻な手書きが売りの大友とは異なり、初期の頃からMacを駆使したコンピューター・グラフィックの使い手でもあった。

その才能が開花したのは、やはり「攻殻機動隊」であった。この作品はヤングマガジン誌に連載されただけでなく、アニメ化されTV放送された。これは大人の鑑賞に堪えうる質の高いアニメであった。その後、映画化もされ、もはやSFファン限定の人気ではなく、一般的なファンも獲得したことが証明された。

元々、世界のSFファンの間では評価が高かったのだが、遂にはハリウッドの眼にとまり、実写化されたのが表題の作品である。原作とはかなり異なるストーリーなので戸惑ったが、分かり易くなってはいる。

でも、出来たら原作に合わせて欲しかった。特に草薙素子の生い立ちに触れるなら、原作と違い過ぎるのが最大の難点。バトーとの邂逅も、原作のほうが私は好きです。

文句ばかり言ってますが、上映中はけっこう楽しんでいました。やはり最新の画像技術を駆使した映像は見応えあります。原作のファンなら、観ても損はないでしょう。

ところで、話題はそれますが、果たして人間の思考は、電気信号だけで構成されるのか、私は疑問に思っています。この作品では、人間の脳の電脳化と、その電脳のネットワークが実現した未来の社会が舞台となっています。

しかし、人間の思考は、果たして電気信号の組み合わせだけではないだろうと思うのです。そこには微量ながらホルモン物質などが介在しているはずで、私たちの技術で感知できない、なにかの媒介物質もあるように思う。

何故かというと、もし電気信号だけで思考が構成されるなら、これほどまでに人は悩み、苦しみ、妄想し、それが行動に出てしまうなんておかしいと思うから。人間の思考は、必ずしも論理的でなく、むしろ情動に流され、感情の揺らぎに左右される。

電気信号ならば、二進法で表現できる。でも、人間の思考は、矛盾だらけで虚数と真数の組み合わせでも表現しきれないように思えるのです。思考だけでなく、感情や直観など、まだまだ解明されていないのが、現在の人類の科学の実情だと思います。

そう考えると、電脳ネットワークの構築なんて、まだまだ相当な未来でないと無理ではないかと悲観的になります。また、電脳ネットワークが実現したとしても、それが人を幸福にするのかも、私には疑わしく思えてならないのですがね。

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浅田真央の引退

2017-04-13 16:15:00 | スポーツ

10年後を見てみたい。

長きにわたり日本のフィギュアスケートの女子第一人者であった浅田真央が、遂に引退を発表した。記者会見ではなく、自身のブログで発表したあたりが、彼女らしい。

お疲れ様と云いたいが、正直、私は彼女にはいささか不満がある。ジュニア時代の輝きを知っていただけに、身体が成長してからの演技には決して満足できない。でも、一番、そのことを自覚し、かつ、煩悶し、悩み、苦しみ、模索していたのは彼女自身であることは明白であった。

フィギュアスケートは、その華麗な演技とは裏腹に、堅いコンクリートのような氷上で身体を酷使する過酷なスポーツだ。とりわけ近年、必須の技術である回転を伴うジャンプは、店頭はもちろん、普通に着地するだけでも、身体に過大な負担を強いる。

幼い頃の浅田選手は、体重も軽いが故に、その過大な負担を軽々と乗り切れた。しかし、成長して重くなった体で、あのジャンプを繰り返すことは相当な負担であったはずだ。おそらく膝や腰はボロボロではないかと思う。

だから、ジュニアで活躍した選手は、シニアになると演技に磨きをかける。技術の正確さだけでなく、観客を魅了する演技にも重点を置くことで、高い得点を獲得して世界に挑む。

私の想像だが、浅田選手はスケートが大好きなのだと思う。その想いは誰にも負けないほど(かなりの負けず嫌いだと、私は確信している)深く、濃く、彼女を縛り付けた。

純粋にスケートが好きなだけに、他のことには無関心に近かったのではないかと思う。年頃の娘さんだけに、いろいろあるはずだが、浅田選手はスケート以外に夢中になれるものはなかったと思う。

その目標は、ジュニアでの世界大会優勝と同じレベルであるはずだ。皮肉なことに、それが彼女をむしろ制約してしまったと思う。女子選手で誰よりも華麗なジャンプを持ちながら、そのジャンプに頼りすぎて、他が疎かになり、結果的に全体の得点が伸びない。

その事が、自身分かっていながら、あくまで自分のスケートに拘り、それが裏目に出たのが彼女の競技人生であった。迷いもしたし、模索し、新たな挑戦も厭わなかった。だが、どこかが足りなかった。

ライバルであったキム・ヨナはジュニア時代、常に浅田選手の後塵を拝した。その悔しさから、徹底して得点を取るスケートに切り替えたキム・ヨナの覚悟は、他から嫌われようと、意に介せぬ覚悟があった。

おそらく一つ、一つの技術なら浅田選手のほうが上であろう。また、当時の女子フィギュア選手としては最高のジャンプ技術を持ち、かつ、その上を狙う向上心を持っていたのも浅田選手であった。

しかし、敢えて全体の完成度を高めるため、得点を高くとるスケートに徹したキム選手の覚悟には及ばなかった。また、キム選手には野心があったように思う。それはスケートだけでなく、その後の人生設計をも求めたもののように思う。

その点、浅田選手はフィギュアスケート一筋であった。それ以外の活動(CMや芸能活動)は最低限にし、ひたすらスケートを高めることに傾倒した。その一途さは尊敬に値するが、同時に彼女のスケートにおける演技を狭めたと思う。

だからこそ、私は彼女の十年後を見たいと思う。一人の社会人として、また女性として様々な経験を積み、成熟した魅力を見せるスケートを見せて欲しい。多分、今の浅田選手には出せなかった魅力が出ると、私は信じています。

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シリアへのミサイル攻撃に思うこと

2017-04-12 14:45:00 | 社会・政治・一般

思ったよりも、外交手腕はあるようだ。

先週、イラクの軍事基地へのミサイル強襲をやってのけたアメリカのトランプ大統領。しかも、その指令はシナの習主席を迎えた別荘地で出したというから、なかなかのものだ。

どのような会談であったのか、まだ良くは分からないが、笑顔が写された映像ほどに友好的なものであったとは思えない。面子を重んじるシナ人にとっては、なにがなんでも今回の会談を失敗とみられてはならない。

それゆえに、会談後に笑顔をTVに見せたのだろうが、内心は怒り心頭であったのではないかと思う。もっとも、シナは怒るだけであろうが、ミサイル攻撃を受けたシリアのアサド大統領は更に悲惨だ。

なにせ、アメリカに対する報復を口にすることさえ出来ずにいるのだから、かなりの衝撃であったと思われる。そして、そのシリアとの軍事協力を続けてきた北朝鮮の刈り上げ王子は、恐怖でその太った体を、地下に隠して震えているのではないだろうか。

アメリカが今回のシリア攻撃で使ったミサイルは、巡航ミサイルであろう。弾道ミサイルに比して格段に命中率が高く、しかも大量に攻撃可能。半世紀以上昔の技術である弾道ミサイルとは異なり、高度な技術の塊であり、どうやっても、北朝鮮には製造できない。

父の金正日もそうだったが、迂闊に人前に出ることを避けざるを得ないほど、巡航ミサイルは独裁者にとっては恐怖そのものである。その巡航ミサイルを、よりによってロシアが後見しているシリアに向けて撃ってきたのである。

当然、ロシアは反発したし、シリアも怒りを露わにした。しかし、そのシリアでさえ、アメリカへの反撃を口にすることはなかった。これが軍事力による抑止力の現実である。

ここにきて、シナは考えを改め出したのではないかと思う。アメリカの北朝鮮攻撃を実現させることは、断固として避けねばならない。しかし、シナはアメリカに対して軍事的劣位にあり、アメリカを止めることはできない。

では、どうする。

現時点では、私の妄想に過ぎないが、シナは自らの軍を北朝鮮に使う可能性が出てきたと思う。アメリカに先にやられるくらいなら、自分たちが一番先にやってしまう。

実際問題、シナの人民解放軍でも、最新の装備を揃えた北方軍は、以前から北朝鮮国境付近に布陣していることは周知の事実だ。従来、私はシナは北に傀儡政権を作る機会をうかがっていると考えていたが、ここにきてその動きが加速化するかもしれない。

アメリカはシナが38度線を超えない限り、黙認する可能性が高い。世界の多くの国は、極東の半島での騒乱には関心が薄いでしょうから、同様に黙認するでしょう。関心を持つのは、ロシア、日本、南コリアくらいなもの。しばらく朝鮮半島情勢には気を抜けない状況が続くようです。

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ザビエルの謎 古川 薫

2017-04-11 13:15:00 | 

日本って、幸運だったのだと思うことがある。

イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが日本に来たのは戦国時代であった。これを幸運と云わずしてなんと言おうか。当時の日本は下剋上が当たり前の実力社会であった。

それゆえ、各地の小領主といえども、その政治的なセンスは戦乱に鍛えられたものであるから、平和ボケした現代日本の政治家とは雲泥の差である。彼らは、最初はキリスト教に対して様子見であったが、その本性を見抜くのは速かった。

イエズス会は、ヨーロッパを大混乱と戦乱をもたらした宗教改革に対する既成勢力の反撃の烽火として立ち上がった反宗教改革集団である。もちろん目的は伝統的なキリスト教の復興であり普及である。

それゆえに、強固な信念の下に、未だキリスト教が普及していない未開の地に赴いて、そこで布教活動をする尖兵として、ザビエルは遠い異国の地を訪れている。

そして、それは西欧による植民地化の第一歩であることは、歴史が証明している。キリスト教の布教と、戦乱を勝ち抜いて、更なる発展を望む西欧の君主たちの欲望のコラボレーションでもある。

だが、アジアの強固な伝統社会がキリスト教の野望の前に屈することはなかった。もっとも、それは始まりに過ぎず、現地で拒絶され迫害されたキリスト教関係者の救助を名目に、西欧各国は武力で侵攻して支配地を増やした。

この宗教と政治の野心のコラボレーションに屈しなかったのは、シナとタイ、そして日本である。シナは巨大すぎたし、タイと日本は尚武の国であったことが幸いした。戦国時代末期の日本は、キリスト教を尖兵とした西欧の侵略を撥ねつけた。

でも、決して日本は自らの努力だけで、この侵略を撥ねつけることが出来たのではないと思う。そこには西欧側の失策もあったと私は考えている。

興味深いのはザビエルで、この人は西欧から遠く離れた僻地である極東において、精力的な布教活動をするにあたり、非常に慎重であった。日本をいったん離れて、シナでの布教を目指す中途で死んでいるのだが、どうも謀殺の匂いが漂う。

もしザビエルが生きていたのなら、日本におけるキリシタン弾圧はなかったかもしれない。そのくらい慎重な策士であったザビエルだが、それゆえに性急に結果を求める同胞から厭われたようなのだ。

ザビエルの後任の宣教師たちは、大砲などを搭載した船を、秀吉らに見せつけて力を誇示してしまった。これは布教を優位に進めるためであったと思われるが、過酷な戦場を生き抜いた秀吉の警戒感を呼び起こし、結果的にキリシタン弾圧となった。

ザビエルだったら、こんな拙速な真似はしなかったではないか。私にはそう思えてならない。結果的に、キリスト教は自らの稚拙、性急な布教拡大策をとって自滅した。やはり日本は幸運であったと思うのです。

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ジャッキー ファーストレディ最後の使命

2017-04-10 12:41:00 | 映画

法治国家にとって最大の敵は、内部に発生する法制外の存在が実権を握ることである。

具体的な例を挙げると、戦前の日本における陸軍の三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)会議であろう。陸軍の将官任命は、この三長官会議の合意によって決まることが、大正時代より慣例として確立されていた。

つまり、この三長官会議の同意がなければ、陸軍大臣は任命されず、組閣が出来ないこととなる。組閣が出来ない総理大臣は、内閣を作れず、最悪辞任に追い込まれる。これを利用して陸軍は政府に強い干渉力を持ってしまった。ちなみに、この三長官会議は慣習的なもので、法令等により認められたものではない。

私は、戦前の政府が大陸から適切に撤退できなかったのは、この三長官会議を利用して陸軍が大陸での権益確保に走ったことが、大きな要因だと考えている。

恐ろしいのは、この三長官会議を誰も規制できなかったがゆえに、政府は機能不全を起こしてしまったことで、私はこれを文民統制の失敗だと判じている。

法制外の存在が、政府に強い影響力を持つことが、どれほど恐ろしいかの実例である。戦争の反省を口にするなら、せめてこの位の知識は持って欲しいものである。

ところで、この一世紀以上にわたり、世界の覇権を握ってきた超大国がアメリカである。

そのアメリカにおける大統領の配偶者、すなわちファースト・レディの存在を、どう考えたらよいのであろうか。まず、ファースト・レディとは、公職ではない。アメリカの法令においても規定される存在でもない。

しかしながら、その存在感は圧倒的であり、法制上の地位ではないにも関わらず、事実上大統領を補佐する立場にある。そして、ボランティアなどの奉仕的な役割を担う存在でもある。

幸いアメリカは強力な三権分立を確立しており、更にはファースト・レディは軍事上の役割を担うことはない。だからこそ、安心できるのだが、それでも無視できる存在ではない。

そのアメリカのファースト・レディとして最も著名な一人であるジャックリーヌ・ケネディを主役に置いた映画が表題の作品だ。あのダラスの暗殺事件において、脳を吹き飛ばされたケネディ大統領の傍らにいた悲劇のご婦人である。

ホワイトハウスに初めてファースト・レディ用の執務室を設置した人物であり、ケネディ大統領の葬儀に関しても、多大な影響力を行使した人物でもある。

私はこの映画がなにを言いたいのか、あるいは伝えたいのか、よく分からない。悲劇のヒロインを描いたようにも思うし、ファースト・レディの立場の難しさ、厳しさを伝えた映画にも思えた。

でも、ある種の倦怠感を感じたと同時に、ファースト・レディの怖さも感じた。ちなみに、ヨーロッパの議会制民主主義を採る国では、首相あるいは大統領の配偶者に留めて、政府から切り離す方向に向いている。たぶん、そのほうが健全なのだろうと思う。

もっとも我が国では、安倍首相の奥さんの出たがりぶりが、野党から安倍叩きに利用されているようだ。権力者の配偶者とは、実に曖昧な存在である。法制上の地位を持たないにも関わらず、政治的な影響力を強く持つ配偶者を、このまま慣例的に放置していいのか、私はけっこう不安に思っています。

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