歯が砕けた。
数日前のことだが、夕食に手羽先の照り焼きを食べていた時のこと。骨についた肉を削げ落そうとかぶりついていたら、ガリッと妙な音がした。手羽の骨が砕けたのか・・・
でも、口の中の感触がヘンだ。手で探ると、前歯に隙間があるみたい。慌てて鏡を見ると、本当に前歯が一本無くなっていた。よくよく見ると、歯の根っこの部分が残っている。ちなみに、痛みはまったくない。
翌日、馴染みの歯医者に緊急で看てもらうと、歯根をわずかに残して、完全に砕けていた。30年以上前に、この歯医者で虫歯を治してもらった箇所である。あの時、神経の一部を殺していたので、徐々に歯が劣化していたらしい。
それに加えて、虫歯が内部から蝕んでいたようで、要するに外見はまともだが、中はボロボロであったらしい。歯根があまり残っていないので、抜いてブリッジで差し歯をするとのこと。
あぁ、これで二本目だよ、歯を抜くのは。ずっと自前の歯で食べてきたのだが、昨年以来、歯の劣化が始まってきている。おそらく、歯からカルシウムがかなり抜けているはずだ。これは若い時に飲んだステロイド剤の副作用であろう。
難病のため、いろいろ副作用の強い薬を飲んで生きてきたから、そのツケだと思って諦めている。無理して生きてきたからなぁ。
思うに、虫歯の治療で歯の神経を殺すのって、あまり良くないのかもしれない。虫歯の痛みは我慢できるものではないので、神経を殺してしまうのは苦痛からの解放という点では良かった。
だが、神経が十分通っていない歯は劣化も早いことが、よく分かった。最近は歯を削らない虫歯の治療もあるようだし、技術は日進月歩なのだろう。私が子供の頃は、虫歯は抜いてしまうのが普通だった。神経を殺して深く削って、元と同じような色で埋めるなんて最新の治療だった。
小学生の頃、近所のおじいちゃん歯医者さんに何本か虫歯を抜かれた私は、今の歯医者さんに替わってから、新鮮な感動を覚えたものだった。明日には、歯根を抜いて、ブリッジをして入れ歯を作る予定だ。
後、何年生きられるか分からないけど、なるべく歯で噛んで美味しい食生活を楽しみたいものである。
萌えキャラ化して久しいのが、タチコマである。
「攻殻機動隊」に登場する多脚型思考ロボット戦車の愛称である。人口知能(A1)搭載であり、多少の個性はある。身体を義体化したメンバーが多い攻殻機動隊の活動を、サメ[トする役割を演じている。
特に軍人上がりのバトーは、タチコマに天然オイルを使ったりして、妙な可愛がり方をしている。そのせいだろうが、アニメではバトーの危機に駆けつけたタチコマたちが、吾が身を挺してバトーを救っている。
このあたりが、タチコマ人気の元なのだろう。
ちなみにタチコマは本来、サメ[ト型の戦車であり、愛玩グッズではない。そんなタチコマたちを主役として描かれた漫画が、表題のものだ。私は原作だと思っていたのだが、正確にはアニメが先で、その後に漫画化されたものであるようだ。
アニメは観てないのだが、漫画は雑誌(月刊ヤングマガジン誌)は読んでいた。ロボット絡み、兵器絡みのうん蓄があり、けっこう楽しく読んでいた。実際問題、このタチコマが相棒として、あるいは部下としていたら楽しいと思う。
途中で、素子が試しに人類への反逆を議論させることをさせているが、この呑気で可愛らしい思考ロボットたちは、反逆することは理にかなわないと結論づけていたのが微笑ましい。
本気の予測ではないのだけど、多分日本人は思考型ロボットを作ってしまうと思う。その時は、このタチコマのような奴がいいなぁ。
前提が間違っているように思えて仕方ない。
ミサイル発射やら、核実験やらできな臭い朝鮮半島の独裁国家である北朝鮮は、平和を求めている訳ではない。しかし、戦争をやりたがっている訳でもない。
では、何を求めているのか。ここが分からないと、北朝鮮情勢は分からなくなる。
実のところ、北朝鮮には国家総力戦を行う体力がない。兵器も足りないし、食料も不足している。弾薬や火薬のみならず燃料も不足している。半世紀前の朝鮮戦争は、最初はロシアの支援があり、次にシナの支援があったからこそ戦えた。
しかし、北朝鮮単独で戦争をするだけの力はない。それは半世紀後の今日でも変わりはない。では、世界との平和を求めているのか。いや、求めていない。むしろ、戦争の危機を必要としている国である。
言うまでもないが、北朝鮮はマルクス主義国家でもなければ、社会主義国家でもない。金一族により支配された金王朝が、その実態である。この国では、如何に国民が金正恩を熱烈に支持しているように振る舞おうと、それは表向きの姿に過ぎない。安全に生きていくために必要なポーズに過ぎない。
国民の大半は、日々の暮らしに追われ、貧困に喘ぐだけだ。国家に対する忠誠心などある訳なく、ただ身の安全の為のポーズとしての熱烈な忠誠心をアピールしているだけ。
そのことは、誰よりも金正恩自身が分かっている。だからこそ、世界から孤立している必要がある。世界は敵であり、金王朝だけが頼りになる社会である必要がある。なにより大事なのは、特権階級として金一族とその取り巻きたる支配階級の豊かな生活が維持されることだ。
もし、和平路線に舵を切れば、自国の惨めな状況を国民が知ってしまう。それは断固避けなければならない。だからこそ、世界と対立する状況が必要なのだ。
国としては貧しいが、おそらく一割に満たない特権階級は、それなりに豊かな生活を享受してきている。残りの9割の国民が貧困に喘ごうが、それは古来より変わらぬ半島の伝統的な姿に過ぎない。国民みんなを豊かにする必要など、まったく感じていない。
貧しい者が多数ならば、少数の特権階級の生活は安泰である。相対的に豊かさを感じるのは、国を閉鎖しているからこそだ。もし、世界に国を開いてしまったら、世界の豊かな国々と比較されて、劣等感から惨めな想いをするだけだ。
だからこそ、世界と対立している方がいい。そのための弾道ミサイルであり、核実験である。
初代の金日成には多少は野心があったようだが、二代目の正日、三代目の正恩には、半島統一の野心すらなく、あるのはひたすらに自分たち特権階級の暮らしを守ることだけだ。
そのためには世界から無視されない程度の武器が必要であり、世界から注目される軍事的危機が必要となる。素人政治家のトランプが勘違いしてミサイルを打つ可能性はあるが、朝鮮半島が戦禍に包まれる可能性は低いと思います。
考えるだけが勉強ではない。
暗記だって立派な勉強だ。特に理屈で学ぶのではなく、単純に暗記したほうが良いこともある。その代表が古典だと思う。単に暗記するのではなく、声を出して暗唱するのが理想的だ。
暗記を厭う人は多いが、覚えてしまわねば、どうしようもないこともある。また、理解して覚えるよりも、先に暗記して、理解は後付けにしておくほうがいい場合もある。その代表が古典だと思う。
その暗記が楽しんで出来ることが理想的なのだが、これが難しい。古典とは古代日本語であり、現代日本語から綿々と続いているとはいえ、その流れを理解するのは大変に難しい。
中途半端に似ているだけに、理解できそうな気がするが、理解から入ろうとすると、大変な辛抱が求められる。だから暗記してしまったほうが、結果的に楽だ。
暗記するだけでは役に立たないと述べる人がいるが、こと古典に関しては違うと思う。言葉のリズムとか言い回しの節とか、古典を暗記したことがある人と、そうでない人とでは、かなりの差が出ると思う。言葉だけでなく、文章でも古典をしっかりと勉強した人は、そうでない人よりも格上の文章となる。
だから、私は古典暗記を推奨している。
とはいえ、意味の分からない言葉を暗記する辛さは分かる。だからこそ、小倉百人一首を用いたカルタ取りという遊びを、私は高く評価している。和歌を暗記する作業は辛いが、カルタ取りという遊びに役立つことで、覚えることが格段に楽になる。
驚くべきことに、1000年以上続く遊戯として、未だに小倉百人一首は使われている。これは世界的にみても、珍しいのではないかと思う。そもも学校ではなく、家庭で教わり、覚える子供が多いのも特徴であろう。
言い換えると、各家庭における知的水準の差が出てしまうのが、小倉百人一首ではないかと思う。幼い頃から、このカルタで遊んでいた子供は、概ね古典のみならず国語全般にわたり成績が良かったように思う。
そんなことを思いながら、表題の映画を観ていた。TVアニメが有名だが、映画もこれで22作目だそうだ。でも、原作中では、まだ半年だというから呆れてしまう。日本って、こんなに難事件が多い国なのか。まァ、イイですけどね。
一点、気になったこと。小倉百人一首って、ほとんどの歌が恋愛絡みではないか。日本って古来より平和な国だったのだなぁ。古来より詩歌を嗜む国は少なくないが、戦争を謳った詩歌もかなりある。日本だって、古来散々戦争やっているのですが、戦争を詠ったものは極めて少ない。ホント、不思議な国です。
好きな歌だけど、もう40年以上人前では歌ったことがない。
この歌を初めて聴いたのは、小学生の頃、キリスト教の集会の時であった。幼稚園の一室を借りて、そこで聖書を読み合った。その後、賛美歌を歌うのだが、私ら子供たちは、単調な讃美歌にはすぐ飽きてしまう。
そこでシスター役の女子大生のお姉さんが、いろんな曲をオルガンで弾いてくれた。そのなかの一曲が「学生時代」であった。その歌い手がペギー葉山であったことを知ったのは、何時頃なのかは定かではない。
私は子供の頃は、ボーイソプラノであったので、この歌は歌うのが難しかったことは、良く覚えている。低い音程が出なかったし、高い音程で歌うと雰囲気が変わってしまうからだ。
だから、人前で歌うことは、ほとんどなかったと思う。それでも好きな歌であった。あの頃、私はイエス様に祈りを捧げることに、ある種の自虐めいた喜びを感じていたからだ。
「イエス様、今日は前をチンタラ歩いていたTの奴の尻を、後ろから思いっ切り蹴っ飛ばしました。ゴメンナサイ」
「イエス様、昨日、Sの奴に消しゴムを隠されたので、仕返しに今日、Sの筆箱をゴミ箱に突っ込みました。ゴメンナサイ」
神様に詫びを入れているのだから、先生が叱ろうが、クラスでつるし上げられようが、私は気にしなかった。やられたから、やり返して何が悪い。でも、悪いことは悪いのだから、神様にだけは謝っちゃえ。
そんな自分勝手な理屈で、自分の悪さを誤魔化していたので、この歌の「蔦の絡まるチャペルで、祈りを捧げた日~♪」は脳裏に刻まれていた。気に入っていた曲ではあったが、歌詞全体としては気恥ずかしさが先立ち、人前で歌う気になれなかったのも確かだ。だから、カラオケでも歌ったことはない。
内心、ひねくれた自分には似合わない曲だと感じていたのが最大の理由だと思う。でも、良い曲だよね。歌い手のペギー葉山さんが先週亡くなったとの報道を読み、少し寂しい気持ちになった。今度、機会があったら、歌ってみようかなぁ。