ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

自由という権利を行使すること

2019-10-15 11:39:00 | 社会・政治・一般

甘ったれるな、と言いたい。

古来より、政治家とか貴族のような権力者を批判することは命がけであった。

文字通り死を賭しての批判であり、そのために批判者のみならず家族までもが虐殺されることだって珍しくない。これは近代までと言いたいが、実際には21世紀の今日であってもあり得る現実である。

賢人プラトンはギリシャの権力者に文句はあっても、直接は言えず、替わりに架空の国を例に出して間接的に批判した。王に対する批判は、何時の時代でも命がけであり、それゆえに諧謔やジョークが発達したぐらいである。

近代になり人権思想が生まれ、ようやく言論の自由が謳われるようになった。でも、それが守られないことも多く、多くの勇気ある批判が、暴力により踏みにじられた。

ところで日本に於いて言論の自由、表現の自由が公にされたのは、太平洋戦争の敗戦のおかげである。理想に燃えるアメリカの学識者たちが、本国でさえ実現できていなかった自由を、日本に於いて実現してしまった。

本来、言論の自由、表現の自由は権力者との血なまぐさい争いの末に勝ち得た成果であり、だからこそ真剣に尊重されねばならないはずだ。しかし、日本では戦争に負けたことにより与えられてしまった。

そのせいだろうが、本当の価値を知らずに、安易に自由を振り回す風潮が顕著である。

自由とは、実に安易なもので、振り回すのは勝手だが、当然にその結果を受け止める覚悟が必要である。人を傷つける自由を行使すれば、それが自分に跳ね返ってくることを覚悟する必要がある。

ところが、人を傷つける自由を行使しておきながら、その覚悟の無い甘ったれが横行している。

その典型が、現在騒ぎになっている「あいちトリエンナーレ2019」であろう。表現の自由を行使しておきながら、その結果多くの人に嫌われるのは嫌らしい。死を覚悟して王や将軍に諌言をした人々の苛烈な覚悟とは比較するのも馬鹿らしい醜悪さである。

自由とは好き勝手できる権利ではない。好き勝手すれば、その結果を受け止める覚悟を要する崇高な行為である。覚悟なき自由は、幼稚であり、醜い。

本来は名古屋の地に、芸術の新風を吹かせようとしたイベントであったのだが、安直な自由が横行する醜悪なイベントに堕してしまった。あんな幼稚なイベント、私は絶対に足を運ぶことはないですね。あれは芸術ではなく、単なる反日宣伝です。

表現の自由を貶めるな!

本気で天皇の写真を焼くことを表現の自由の一端だとしたいのならば、それを不快に思う人々からの攻撃を受け止め、傷つくさまを公表してこそ、真の表現の不自由展に値する。その覚悟のない甘ったれぶりは、単に不愉快で下種なだけです。

コメント
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