偶に仕事で地方へ行った時の楽しみの一つが、その地元独特のスーパーマーケットに立ち寄ることである。
現在、全国規模で展開しているのは、イトーヨーカ堂とイオン、西武ぐらいなのだが、それほど個性がある訳ではない。それに、言っちゃなんだが、少々高い。それに見合う内容の商品もあるが、そうでない奴もある。だからこそ、店舗の廃止や移転の噂が絶えない。
ここ数年、全国規模で展開している小売店の店舗縮小が相次いでいるのは、報道などでも良く知られていることだ。その一方で、ドラッグストアやホームセンターなどが、スーパーに負けない品揃えで小売業に参入している。
でも、全体としてみれば、小売業は縮小傾向にある。これはある意味、必然の流れであろう。なにせ日本の人口は減る一方であり、それほど多くの買い物をしない高齢者の割合が増える一方であるのだから、小売業が縮小化するのは当然である。
ところが、そんな中でも人気を博している中規模な小売店、スーパーは確実にある。独特な商品構成や、個性的な商品、品ぞろえでその地元のみならず、地方からも客を惹きつける。
そんな噂を聞きつけると、無精者の私でさえ一寸足を延ばして、行って見たくなる。そして行けば、目的のもの以外にも買ってしまう。このような小売店は、こんな時代であっても売り上げを伸ばせる。
現在、アマゾンや楽天などネットでの小売業が売り上げを伸ばしている。特にスマホでの小売りは、個性的を出さねば生き残れないため、特徴ある売り方、商品展示などで個性を出している。
だが、その一方で失敗するネット販売も後を絶たない。当然であろう、素人がたいした努力もなしにこの競争の厳しい業界で生き残れるほうが不思議である。
時代はどんどんと変わっていく。高齢化社会は、欲しがらないが金は持っている老人という厄介な消費者と、どう付き合っていくかが問題となる。誰もがスマホやPCに対応できる訳ではない。だからコープなどがやっているFAXによる注文受け付けは案外と馬鹿に出来ない。年をとればとるほど、使い慣れたシステムに安心するからだ。
消費税増税を契機に、盛んにキャッシュレス社会の到来を宣伝している。特に若い人は、この便利なキャッシュレスを率先して使っている。その一方で、買い物はあくまで現金だとする中高年は少なくない。これを時代遅れだと言う人もいるが、それは違うと思う。
日本の場合、紙幣の信用度が非常に高い。贋札が横行する外国とは異なり、偽造が難しい日本の紙幣に対する信用は、案外と在留外国人が一番良く知っている。とはいえ、キャッシュレスが使える店が、もう少し増えると外国人向けの売り上げは、もっと増えるだろうとも思っている。
ただ従来のクレジットカードは導入コストが高いし、信用調査も厳しかったから零細小売店は及び腰。だからこそ、スマホによりキャッシュレス決済は、もっと伸びる余地がある。でも、現金取引がなくなることはないとも確信している。
私は特に買い物好きという訳ではない。だからこそ、自分の目で見て、足を運んで経験してみることを重視している。コンビニも含めて全国一律のサービスを提供するかたちでの小売店は、大きな曲がり角を迎えていると思います。
夜の闇が恐ろしくて仕方がない。
親に死に分かれた僕は、遠い親戚のおじさん、おばさんとこの山奥の森の奥の家で暮らしている。叔父さんは逞しくて頼りがいがある。おばさんは優しくて、料理が美味しい。ずっと寂しかった僕が欲しかった暖かい家庭だ。
でも、叔父さんは山奥に行ったきり帰って来ない。探しに行ったおばさんも帰ってこない。美しいと思っていた山は、闇夜になると底が知れずに恐ろしい。鳥の囀りがが楽しかった森は、闇が深くなり、飲みこまれそうだ。
僕は怖くて家に閉じこもっていた。幸い食料は豊富にある。でも、おじさんたちが居なくなって、もうだいぶ経つ。僕は気が付いてしまった。夜になると、家の外を何かが這いずっていることに。しかも、その音は次第に近づいてきている。
日ごとにその音は近寄ってきている。今も屋根の上を這いずりまわっている音が聴こえてくる。僕は毛布にくるまって、耳を塞ぎ、目を閉じて、歯を食いしばって泣くのを我慢している。
僕は明日の朝を迎えることが出来るだろうか。誰か、この手記を読んだならば探しに来て欲しい。助けて欲しい。
子供の字で、震えて書かれた文字は、ここで終わっている。
今から40年ほど前、中学の図書館で読んだ本なのだが、脳裏に刻まれてしまい、忘れれることが出来なかった。いや、忘れても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
ところが困ったことに、この短編の作者も、タイトル名も覚えていない。ただ、その内容だけが忘れられずにいる。
でも、ようやく、本当にやっとのことで見つけ出した。私は内容からして、アメリカの怪奇小説家ラグクラフトの作品だと推測していた。だから、彼の小説を読みまくったのだが、見出すことが出来ずにいた。
しかし、ラグクラフトの弟子たちの短編集を読んでみたら、そこでようやく発見した。ラグクラフトが想像して作ったクトゥルー神話は、多くの愛読者を生み出し、その中から自分で書いてみたいと切望する若者たちを、ラグクラフト自ら指導して書かれた作品がある。
その弟子の一人がロバート・ブロックである。怪談としてならば、案外と師匠よりも上手いのではないかと思うほどに表題の作品は良く出来ている。冒頭に書いた文章は、私の脳裏に刻まれた記憶に過ぎない。
是非とも本編を読んで、山奥の森の深い一軒家で恐怖に怯える少年の気持ちを味わって頂きたいです。ちょっと忘れなくなりますぜ。
反省していないことが良く分かる。
先週の国会で、久々に立憲民主党の「歩く疑惑の個人商店」が質問にたった。最初はおずおずと謙虚に質問していたが、すぐに本性が現れた。
「民主党と比較しないでください」
なに、その発言。あんた民主党で気鋭の女性議員として「ソウリ、ソウリ~!」と散々絶叫していたの忘れたの。立憲民主党が看板を据え変えただけの元・民主党であることは誰でも知っていること。
いくら看板を変えても中身は変わっていないことが良く分かる。民主党が脱・自民党政治の期待を受けて政権の座に就いた3年間。いろいろとやらかしてくれたが、おかげで彼ら批判するしか能のない政治家が、誤って政権の座に就くと、国民から支持されなかった政策をやらかすか、霞が関の官僚たちの言いなりになるかの、どちらかしか出来ないことが良く分かった。
その意味で、日本にとっては少々痛い教訓となった。やけになったのか、それとも政治家としての良心が痛んだのか、野田総理(当時)が解散してくれたおかげで、少しはましな政党が政権の座に戻った。
歪んだ善意の塊である民主党のお方々は、決して自らの失敗を認めなかった。だから党首を変えたり、分裂したり、あげくに党名も変えて「民主党という汚名」を誤魔化すことに必死であった。
忘れやすい日本人が、そろそろ民主党のことを忘れてくれるはずと期待していたのだが、今回の台風19号が思い出させてくれた。
民主党の看板政策であった事業仕訳の目玉が、群馬県の八ツ場ダムの工事中止であった。当時、民主党の議員たちは、誇らしげに公共工事の中断を語っていたはずだ。
しかし、結局自公政権になって復活。その無駄なはずの八ツ場ダムが、今回の大雨に際し、利根川の水をたっぷりと貯め込み、下流での水害を多少なりとも抑える役割を果たした。
一応云っておくと、このダムはまだ稼働前(来年の3月からの予定)で、水を貯め込む前であったので、通常の状態ではなかった。しかし、それでも利根川の下流域での水害を抑える効果はあったと思われる。
でも、民主党の看板政策であった事業仕訳のことを思い出されるのは嫌らしいのが立憲民主党。だから冒頭の「比較しないで」との言が飛び出したのであろう。
彼らが過去のことを、全く反省していないことが良く分かる。良心的な政治家ならば、過去の失敗を認めて、同じ失敗はしないとするのが本当であろう。それを、なかったことにして欲しいなどとは呆れてものが言えない。
ついでに書いていおくと、実務知らずの当時の民主党議員に「こんな無駄な公共事業がありますよ」と囁いたのは、他ならぬ財務省のお役人様。今回も、知らぬ存ぜずと無視を決め込んでいることは、是非とも覚えておいて頂きたいものです。
自らの国家を持たない民族は辛い。
国家とは、国民、領土、政府から構成される独立した存在である。当たり前のように思うかもしれないが、人類の歴史を振り返れば、形としての国家を持たない民族は珍しくない。
一番有名なのは、イスラエル建国前のユダヤ人であろう。もっとも彼らは古代にはユダヤ人国家を持っていたが、その後国家が消滅して以降、世界中に拡散していた後に再集結した珍しい事例である。
ジプシーとして知られるロマ民族や、フランスとスペイン国境で定住しているバスク人などが有名だ。最近だと旧ビルマ王国で異民族として扱われ、ミャンマーの軍事政権から迫害されているロヒンギャや、中東の地で複数の国家にまたがり棲息しているクルド人が国家を持たない民族として知られている。
また、かつては中央アジアに巨大な勢力を誇ったウィグル人や、アマゾンの奥地に追いやられた新大陸の原住民のような悲劇もある。いずれにせよ、国家を持てなかった民族は、総じて悲劇的な生き方を強いられる。
日本という国は、政府が国民を守ってくれることが当たり前すぎて、このような国家を持たない民族の悲劇に対する共感が乏しい。実際にクルドの人たちが日本に亡命を希望してきても門前払いしているくらいである。
実を言えば、クルド人は日本に数千人いると云われている。主に関東の蕨市や川口市にトルコ系の外人として暮らしている。トルコは親日的な国であるが故に、そのトルコ政府から目の敵にされているクルド人の受け入れには冷淡であるようだ。
クルド人はイラン西部からトルコ、シリアにまたがり暮らしていた遊牧民であるが、どの国からも迫害を受けているため、その正式な人数さえ分かっていない。海外に移住している者も多く、世界中で推定3千万人前後ではないかと言われている。これはかなり多い。
かつて十字軍を撃退したイスラムの英雄サラディーンはクルド人であったとされるが、現代でもクルド人は各地の外人部隊などで活躍している戦闘に長けた民族でもある。ただ、政治的な指導者に恵まれなかった。
これはウィグルもそうなのだが、遊牧民として長年暮らしてきた民族は、国境とか国籍のような制約を嫌がる傾向が強い。近代になり、世界中に国境線が引かれるようになっても、遊牧民はそれに従うことを良しとしてこなかった。
ある意味、欧州から生まれた近代という概念に最も敵対したのが遊牧民である。それゆえに、国籍を持たず、パスポートもなく、健康保険も年金もない。近代に縛られない自由と引き換えに、過酷な孤立を選択した、選択してしまった民族である。
それゆえに、現在非常に過酷な生き方を強いられているのがクルド人のような国家を持たない民族である。
日本では戦後、国家を否定し、国家を貶めることが平和に繋がると考える妙な人たちが、マスコミ、教育界、労働組合などにはびこっている。多くの日本人が、クルドやロヒンギャの悲劇に冷淡なのは、彼らの影響なのかと思うことがある。
台風関連のニュースにが多いのは致し方ないが、現在世界で話題になっているのは、クルド人やロヒンギャである事実も知って置いたほうが良いと思います。
悪い子はサーカスに売り飛ばされるよ!
こんな風に怒られた子供は、今となってはいないと思う。でも日本でもかつては、こんな風に子供を叱る親がいたらしい。
私は決して良い子ではなかったと思うけど、サーカスに売り飛ばされると怯えた事はない。母にもそのように云われた記憶はない。でも、何故だが覚えている科白なのだ。
どこで聞いたのかは、覚えていない。TV漫画の「タイガーマスク」かもしれないが、もしかしたら江戸川乱歩の少年探偵団シリーズだったかもしれない。
まだ高度成長前の日本では、子供の数は多く、小学校を出ると丁稚奉公に出されることは珍しくなかった。たぶん、その頃には本当にサーカスを演じる団員の弟子として、子供が売られることはあったのかもしれないと思っている。
興味深いことに、似たような話がアメリカにもある。ただしサーカスではなくカーニバルである。TVはもちろんラジオさえ普及していなかった開拓時代のアメリカにおいては、各地を巡業するカーニバルは人々の数少ない娯楽であった。
アメリカのカーニバルでは、即席で作られた手動式の観覧車や、奇形の人たち(フリークス)を展示する見世物小屋、射的場、ポップコーン売りなどがあり、子供たちにせがまれて家族が訪れる代表的な娯楽であった。
そのカーニバルにおける目玉興行の一つがプロレスであった。実はアメリカにおけるプロレスの発祥は、カーニバルが原点の一つだとされている。
基本的には人相の悪い悪役と、人の良さそうな善玉役が試合をして、逆転勝ちで善玉が勝利して観客を喜ばせる。ただ、そこはアメリカである。時々、地元の腕自慢が「俺にもやらせろ」と割り込んでくることがある。
これを断っていたらプロレスは信用ガタ落ちである。だからカーニバルには、必ず一人は本当に腕っぷしの強いレスラーを雇っていた。いや、レスラーというよりも用心棒といったほうが適切であろう。
なにせ強いこと=正義であるアメリカである。大柄で喧嘩っ速い荒くれ者には不足しない。だからカーニバルレスラーには、相当な実力者がいることは珍しくなかった。
もっとも20世紀になり、映画とその後のTVの普及が、カーニバルへの需要を大きく減らしてしまっている。それでも、今もカーニバルは健在だというから、アメリカの古典的大衆娯楽なのだろう。
ところで、このカーニバル出身だと噂されたのが、8月に亡くなったハーリー・レイスである。長くNWAの世界チャンピオンを務めたので、往年のプロレス・ファンには忘れがたい名レスラーであった。
レイスのあだ名は「ハンサム」である。率直に言ってハンサムとは程遠いし、むしろ強面のオジサンであった。でも同業者から馬鹿にされることは、まずない人である。
何故なら裏では「喧嘩番長」と呼ばれる怖い人であったからだ。荒くれ者の多いプロレスラーであるから、もめ事は日常茶飯事である。だが、評判を落とすようなもめ事は、なによりプロモーターが嫌う。
だからこそ、もめ事にレイスが仲介に入ると、ほとんどのレスラーは委縮してもめ事を治めてしまう。格闘技の経験こそないが、ナイフから拳銃まで飛び出すような修羅場を潜り抜けた強者であるレイスに逆らうレスラーは滅多にいなかった。
ただし、レイスはプロのレスラーである。だからプロレスの試合では、けっこう負けたりしている。チャンピオンの座から転がり落ちたのも、かなりの数に上る。だからファンからすると、たいして強くないチャンピオンである。
でも、プロモーター(興業主)からすれば、地元の期待の若手に華を持たせる試合も、快く受けてくれる重宝なレスラーである。でも、たとえ負けてチャンピオンの座から転落しても、レスラー仲間から軽視されることは決してない。
なぜならガチで強いからだ。それでもレイスがプロレスの試合で、本気を見せたことはほとんどない。あるとしたら、場外乱闘に持ち込み、会場を離れて観客の目につかない控室に入ってからだ。
私は一度だけレイスが本気を見せた場面を見たことがある。それは黒い呪術師と異名をとったアブドーラ・ザ・ブッチャーとの試合であった。ブッチャーは黒人に対する蔑視差別が当たり前の時代に、敢えて白人レスラーをいたぶる試合で人気を博した実力派の悪役レスラーである。
ブッチャーは喧嘩の強さには定評があっただけに、敢えてレイスに逆らったらしい。激怒したレイスだが、そこはプロ。陰惨な喧嘩は決して観客には見せない
。体重160キロを超えるブッチャーを引きづり回して、控室への通路に消えていった後ろ姿は、まさに赤鬼であった。
もっともブッチャーもそこから本気を出したらしく両者とも負傷し、その後は欠場する有り様で、プロモーターであるジャイアント馬場が苦り切っていたのが印象的であった。
でもね、この後この二人の遺恨はファンの間に拡散して、次からは観客が押し寄せる目玉カードになっていました。二人とも無類の喧嘩強者でしたから、その試合の乱闘ぶりは凄まじかったです。
多分、欠場したことを悪いと思った二人が、馬場への義理を返すため遺恨試合を繰り返して、盛り上がりに協力したのだと思います。でも3割くらいは、二人とも本気だったんじゃないかなぁ。そのくらい迫力ある乱闘でした。
私は、本来乱闘試合は好きではないのですが、この二人の乱闘だけはけっこう評価しています。だって、普通二階席まで乱闘を続けたりしませんからね。どこまで本気で、どこまでが演技だか分かりませんけど、すんごい試合でした。でも、名試合ではないと思います。まぁ二人とも喧嘩には自信があるだけに、演技で済ませなかったのでしょう。
そんなレイスも病には勝てず、この夏に逝去。また一人伝説のレスラーが消えてしまいました。合掌。