死んだ人には敬意を払うんだよ。
今でも覚えているのだが、私はそうお祖母ちゃんから言われて育った。妹たちは、それほど言われていないと思う。何故かと言うと、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの家の周囲にはお寺と墓地が沢山あったからだ。
墓地はともかく、お寺は木々が豊かで、私が大好きな虫取りには絶好の狩場であったからだ。そのことを知っていたお祖母ちゃんは、私に少しきつく言いつけたのだと思う。妹たちはお寺や墓所になんか行きたがらないから、言われないのは当然だろう。
私は幼少時、米軍基地に入り込んだり、打ちっ放しのゴルフ場に潜り込んだりする悪ガキであったが、お寺に入り込む時は可能な限り挨拶するなどして許可を取っていた。お寺に人がいない時だって、ちゃんとお参りの作法を真似した自分なりの挨拶をしていた。
そのせいか、どうかは知らないが、私はお寺や墓所で怖い思いをしたことはない。大人になった今でも、私のジョギング・コースは墓所の傍を通り抜けるのだが、例え深夜であっても怪しい経験など皆無だ。
ただ私の悪ガキ仲間は、そうでもなかったらしい。私が墓地や寺の森に入り込んで虫取りをしているのを気持ち悪そうにしていた。誘っても、絶対に乗ってこなかった。
このことも影響していたのだと思うが、後に子供たちの間に伝染病が流行し、児童が大量に入院した時、私は周囲からイジメの対象になったことがある。私が墓地に入り込んだから病気が流行ったのだと誹謗された。
私はそれが根拠なき妬みであると思っていた。だが、私の真似をして墓地に勝手に入り込んだ他のクラスの奴らが、住職から叱られていたのは知っていた。その仕返しだろうとも思っていた。そうでもなければ、そうそう他のクラスの奴らから目を付けられることはない。
正直言えば、当時私が苛めの対象となったことと、墓地やお寺に入り込んだことが無関係だと確信があった訳ではない。実際、無意識に私はその頃、虫取りを墓地や寺でやることを控えていたからだ。
怖いと思ったことは一度もないのだが、人間関係のストレスに悩まされるのは、お化けよりも怖いと思っていた。それでも転校して月日が経つと、私は再び虫取りをするようになっていた。
ただ残念なことに引っ越した先は、墓所などまったくない商業地であったから、当然に森や林は少なく、草っぱらさえ滅多になかった。そのこともあって、次第に虫取りをしなくなっていった。
やがて高校に入ると、ワンダーフォーゲル部に入部し、登山をするようになった。もう虫取りへの関心は失っていたが、やはり野山を歩くのは楽しかった。同時に私は自分の意外な才能に気が付いた。
一年生のころは分からなかったが、二年生になり下級生を先導するようになると、私は山道を見つけるのが上手いことを先輩から指摘された。私は野山に限らず、道を歩く時は視線を周囲に走らせる癖がある。
親からは落ち着きがないと注意されたが、これは幼い頃からの癖で、なんの為かといえば、それは虫を早く見つける為であった。その癖は十代半ばになっても残っていたようで、私は登山の時もキョロキョロと視線を回しながら歩くことが普通であった。
それは大学でのWV部でも同じで、私はトップに立って、パーティを先導するのが得意であった。特に迷いやすい藪道では、自分から率先して先頭に立って歩くほどであった。私は人の足跡や、動物などの踏み跡を見つけ出すのが得意なだけでなく、地図を読むのも得意であったので、難コースを楽しんでいた。
だからこそ、あの時は焦った。
四国の山間部を縦走していた時のことだ。正規の登山ルートではなく、稜線上の踏み跡を辿る難コースであった。冬場とはいえ、藪はけっこう濃くて、藪山としてはかなり難易度が高い山域であった。
酷い時は、3時間かけて500メートルしか進めないこともあった。途中ビバーグして、ようやく里に近づいたと思い、内心安堵していた。実際、木々の隙間から下方に林道と思しき光景が見えた時は、思わず歓声を上げたほどだ。
しかし、こんな時こそ慎重であらねばならぬ。パーティを止めて休憩させ、私は一人で偵察に出た。林道へ降るルートを探すためである。藪の薄いところに突っ込み、獣道と思しき踏み跡を見つけ降っていった。
藪を抜けたと思い、腰の高さにあった岩に手をかけて背伸びして前方を見ると、たしかに舗装された林道が間近に見えた。一人ガッツポーズをするが、ふと違和感を感じて周囲を見回して唖然とした。
墓地のど真ん中に私は立っていた。
私が岩だと思っていたのは、墓石に他ならず、同じような墓石が十数個、並んで安置してあった。どうやら近辺の里村のお墓であるようだ。動揺した私は、墓石一つ、一つにお参りをして回った。
頭の中にお祖母ちゃんの「お墓は大事にしなければいけないよ」の科白が久々に甦った。
断言しますけど、この時怖いとの思いとかは一切ありません。ただ懐かしいお祖母ちゃんの声が脳裏に再生されたことが、私的には修羅場でした。その後、落ち着いて林道に降る道を確認してから、パーティが待機している場所に戻った。
リーダーのKに林道と墓地のことを話し、墓地を迂回する形で林道まで降りた。ほぼ四日ぶりの舗装された道路であった。なぜだか、その時みんなで「万歳~!」と歓声を上げたことは良く覚えている。
ヒドイ藪に悩まされた数日を思えば、下級生たちが歓声を上げる気持ちは分かる。もっとも私は一人、林道から墓所を見上げていた。口には出さなかったけど、内心「一応、筋は通したよなぁ」と悩んでいたことは内緒である。
数日後、近隣の村役場に挨拶に行き、たどってきたルートを説明すると「よく、あの藪を抜けられたねぇ」と営林署の方に感心された。かろうじて踏み跡を判別できたのでと話すと「あんた、ハンターの免許でも持っているのかい」と言われた。
私が元々虫取り好きなのでと答えると、なるほどねと苦笑された。どうやら、この人も虫取りをよくやっていた口だろう。
今となっては、虫取りなどは全くしていないが、多分今でも踏み跡を辿るのは得意だと思う。まぁ、その能力が役立つ状況は、考えられないのですけどね。
馬鹿らし過ぎてウンザリする。
安倍首相と桜を見ましょうって何なんだよ。そういえば、なんか案内来ていたな。安倍首相は大学の先輩なので、私のところにも、なにやら来ていた気がする。すぐ、捨てたけどね。
さきほどニュースを閲覧していたら、夕食は一万円だとか。安いな・・・いやマジで。私のところに来た安倍首相誕生を祝う会(・・・こんな名称だと思う)は、参加費5万で安倍首相との写真が撮れるとの触れ込みだった。
別に私は反・安倍、反・自民ではないけど、直接関わりたいとは思わなかったから、当然にスル―していた。誰が行くんだよと思ったが、後で聞いたら会場はほぼ満員で盛況であったらしい。
どうやら私の方が変わり者で、多くの良識ある方々は時の権力者にすり寄るものらしい。
それはともかく、私は呆れるのは今回の騒動での野党とマスコミの反応である。もう首を取ったがごとく舞い上がり、サクラ解散だと言い出す始末。
解散なんてあり得ないと思うけど、解散すれば政権を取れると思える野党政治家の頭の中が謎である。
戦前、戦後も含めても長期政権だといえる安倍首相の外交面での功績は私も高く評価している。反面国内政治、とりわけ経済政策はかろうじての及第点に過ぎない。そして長期政権の必然である傲慢さが覗けていることは多いのはマイナスだと思っている。
にもかかわらず、私も含めて多くの有権者は、政権交代を望んではいない。いや、正確に云えば、野党に政権を託せるだけの期待が持てない。さらに困ったことに、自民党内部にも安倍首相に取って代われるだけの政治家が見当らない。だからこそ、長期政権となっている。
サクラを見る、見ないで騒いでも、有権者は野党を支持したりはしないと思う。今、野党が本気で政権を取りたいと望むのならば、国民が期待を抱くような未来の展望を見せることだ。
だが、その前に過去の反省を真摯にしてみせねば、私は信用しない。「民主党と比較するな」とか「八ツ場ダムは長期的視点で判断すべき」とか言い訳しているようでは、とてもじゃないが信用できない。
なぜ民主党政権は国民から見放されたのか?この点を虚心に明らかにする勇気があるのならば、私は野党にも希望を見出せる。まぁ現状では、まずないだろうと見捨てていますけどね。
問題は自民党内部かな。自らのタカ派色を払しょくしようとして、反日自虐マスコミに尻尾を振って次世代のリーダーの地位を棒に振った石破はともかく、他の中堅議員たちの覇気の無さが、あまりにだらしない。虚勢をはって自滅している小泉坊やは論外だが、岸田にせよもう少し気概を見せてほしいものだ。
私は大陸というか平原には住めない。
そのことが分かったのが、30代の頃に行った欧州旅行の時である。現地に駐在している友人の運転で、各地の美術館を回った。当初はその広々とした平野の広がりに感銘を受けた。
分かりやすい道路標識と、走りやすい自動車専用道はさすがだと思った。驚いたのは、道路の両脇が放牧状態の羊、牛で溢れかえっていたことだ。まさかこれほど牧畜が盛んだとは思わなかった。
同時に違和感も感じていた。高層ビルや中層のマンションがある都市部を離れると、あっというまに牧草地ばかりの平坦な校外が拡がるばかり。なんとなくだが、重苦しい気持ちになった。
やがてなだらかな山稜が目に入るようになり、ようやく気持ちが落ち着いた。どうも私は平原が苦手らしい。東京生まれの東京育ちという都会育ちではあるが、晴れた日には富士山が目に入るし、西側には奥多摩という山岳地帯、南西には丹沢山稜がある。
景色のなかに山と言う起伏があることが、当たり前の環境で育ったので、初めて目にした平原のみが延々と続く光景に心がめげてしまったようなのだ。それは海も同じで、子供の頃から砂浜よりも岩場のほうが好きだった。
海辺で空を眺めたり、海中に潜って海底を見るのは好きだった。でも、広大な水平線はそれほど好きではなかったと思う。幼心に自分は船乗りにはなれないような気がしていた。
成長するにつれて全く忘れていたのだが、ヨーロッパの平原地帯を延々とドライブしてみて、私は平坦な土地が好きではないと実感した。よく地方の人が東京に来て驚くことの一つに、坂道が多いことがある。
元々関東平野の河川の下流域ではあるが、実はけっこう山や丘が多く、徳川家康は山を切り崩して、海を埋め立てて造ったのが江戸である。地名をみれば分かるが、四谷とか渋谷は谷合というか低地である。近くには必ず高所があって、そこが高級住宅地となっていることが少なくない。
そのせいか、東京は案外と電動自転車が普及している。坂道を登るのは大変なので、電動自転車は実に便利なのだろう。
ところで表題の書だが、多分20年ぶりの再読である。当初から私は大陸の広大さに憧れる主人公や李歐の気持ちがよく分からなかった。そのせいか、あまり印象にない本であった。
社会に出てシナの人たちとの交流が進むようになると、よくやくシナ人の気宇壮大なことは、なんとなく感じることが出来るようになった。でもなぁ~、桜の木を数千本植えようとする気持ちは、やはりよく分からない。
たとえ一本でも、桜の木は華やぐものだし、数が多ければ良いというものでもないと思う。私はむしろ他の緑の木々のなかにャbツリと華やぐ桜の美しさが好きだ。
なんとなく違和感を覚えつつも、久々に高村薫の緻密なミステリーを堪能しましたよ。多分、違和感の半分は、当初の原稿に後から手を入れ過ぎているせいでしょう。完璧主義者なのでしょうけど、あまり良い傾向だとは思えないのですけどね。
マスコミの報道に違和感を感じる。
韓国とのGSOMIA失効を今週末に控えている。マスコミの報道だと、元々は日本が韓国を貿易上の優遇措置であるホワイト国指定を外したことへの報復が、GSOMIA失効だとされてしまっている。
馬鹿なのか?
元々3年前から、日本は韓国に対してフッ化水素の使途に関する報告書を提出するように要請しており、それをひたすらに無視していたが故のホワイト国除外措置であったはず。
高純度のフッ化水素は半導体製造に欠かせないものであるから、半導体輸出を稼ぎ頭とする韓国企業が慌てて政府に泣きついた・・・?!
少し違うでしょう。フッ化水素は核兵器製造に必要なウラン濃縮における必要なものであり、また毒ガス製造にも使われる。日本政府が韓国に、フッ化水素の用途の報告を求めたのは、北朝鮮やイランにフッ化水素を横流ししている疑いが濃厚であったからだ。
日本政府は黙っているが、これはアメリカからの要請を受けてのものである可能性が高い。アメリカは韓国が、国連で禁じられた物資を北朝鮮に密かに輸出している可能性が高いと考えている。
だからこそ、イギリス、フランス、オーストラリアなどの協力を得て、日本海及び東シナ海に瀬取り監視の船団を送り込んでいる。当然のように、日本から輸出されてきた高純度フッ化水素の横流しも、その監視の目的になっているはずだ。
ただ、イラン及び北朝鮮両方を刺激するリスクを避けるため、アメリカは沈黙しつつも、監視の手を緩めない。それは日本政府も同様で、横流しの証拠も既に握っているとされている。
高純度フッ化水素は極めて毒性が強いだけでなく、腐食性も強く普通の容器では運べない。この容器も日本がほぼ独占的に製造しているため、横流しの把握もさほど難しくない。
しかし、韓国としては、横流しの事実を認める訳にはいかない。それどころか、今後も横流しを継続したい。だからこそホワイト国指定の復活を求めている。文政権としては、日本を説得する手段としてのGSOMIA解除であったはずだ。
ところが、これは完全な読み違い。GSOMIA締結前から、フッ化水素の横流しの疑惑はあった。だからこそ、厳格な報告書の提出を韓国に求めていたはずだ。
当然だが、アメリカが韓国の要請を蹴るのも当然である。核拡散に警戒をみせるアメリカが、日本の対韓国貿易の厳格化に好意的なのは必然である。GSOMIAを人質にとってアメリカの威光で日本を説得するプランが上手くいくわけがない。
元を質せば、フッ化水素の横流しこそが最大の問題なのだから。日本としては、適切な報告書さえ提出してくれれば、審査次第で輸出を認めている。それだけのこと。実際、適切な報告書さえ出ていれば輸出は認可されているしね。
私はこのように、GSOMIAの問題を捉えていたのだが、どうも日本のマスコミの報道の仕方に違和感を禁じ得ない。私の認識が間違っているのか?それとも、日本のマスコミがおかしいのか。
敢えて横流し問題をスルーしている韓国内のマスコミ報道も問題だが、それはあちらの問題。でも、私には日本のマスコミ様が韓国マスコミに合わせているように思えて仕方ない。
どうも国際問題の認識は難しいと言わざるを得ません。
一目見たら、絶対に忘れられないのがマンボウである。
水族館よりも、TVなどの映像で見ることが多いと思う。水族館での飼育が難しいことで知られている。泳ぐのが下手で、水槽の壁にぶつかって死んでしまうことがある。だからマンボウの飼育は3年程度が限界であるらしい。
その姿が良く知られている癖に、実は生態が未解明の魚である。そのせいか、マンボウ最弱説もあるが、海の王様だと云われることもある。どっちだよ?
まず最弱説なのだが、曰く「寄生虫を払うため水上にジャンプするが、着水の衝撃で死ぬ」曰く「朝日を浴びると死ぬ」曰く「深海に潜ると寒さで死ぬ」曰く「仲間が死ぬのを見ると、ショックで死ぬ」・・・etc
全てウソです。それほど弱くはありません。たしかに泳ぐのは下手だと云われていますが、しっかり水深800メートルくらい潜って捕食行動する様子が見られています。機敏ではないが、それなりに泳げていたらしいです。
では、海の王様とは如何に?
これは、成体のマンボウの周囲には、常に小魚が付き添っている姿から、王様だと云われているようです。種を明かせば、マンボウの体表には多数の寄生虫が棲息しており、それを餌とするため小魚が常に寄り添っているからです。
実はこの寄生虫こそが、マンボウの生存の秘密です。
決して動きの早くないマンボウが、生存競争の厳しい海で生きていられるのは、この寄生虫が原因だとされています。怖い物知らずのはずのサメやシャチは、マンボウの姿を見かけると、避けていくそうです。
マンボウは体表だけでなく、その内臓にもアニキサスなどの寄生虫をもっているため、それを嫌がって最強の捕食者であるサメやシャチはマンボウを避けると云われているのです。
ただし、この寄生虫はマンボウ自身にとってももろ刃の剣で、寄生虫が死因の原因となることがあるのです。だからマンボウにとって周囲に寄生虫を食べてくれる小魚の存在は欠かせないのです。
なんとも難儀な生き方をしていますが、そのわりに呑気な顔をしているのが可笑しいです。水族館大好きな私ですが、マンボウは割とレアな魚なので、見つけた時は凄く嬉しいです。
ちなみに、マンボウを常食する地方はあまりないようですが、白身の美味しい魚であるようです。ただし、寄生虫をしっかりと除去することが条件なので、その面倒を避けてか、あまり食べられることはないようです。市場には出ない魚ですから、地場の鮨屋や割烹料理店で稀に食べられるとか。
私も一度くらいトライしてみたいですね。でも、アニキサスは勘弁です。あれ、もの凄く痛いらしいですから。