豚カツを食べる時は、絶対にキャベツの千切りは欠かせない。
もっとも私は家では揚げ物は作らない。一人分を作るのが面唐ネのではなく、一人分の油を処理するのが面唐セからだ。まぁ固めて捨てるだけなのだが、割に合わないと思っている。
だから天麩羅にせよ、豚カツ、唐揚げにせよ、もっぱら外食時にしか食べない。ただ地元の駅から少し遠いいが美味しい豚カツを店売りしている肉屋さんが、かつてあったので、そこでお惣菜として買うことはあった。
そうなると、キャベツの千切りが重要になる。
そんなの簡単だぁとは云わない。私は外食で、美味しい豚カツ屋を数軒知っているが、そこで出されるキャベツの千切りの繊細で柔らかな味わいが、しっかりと記憶に刻まれているので、キャベツの千切りが簡単だなんて思わない。
だから家でけっこう練習している。そして、その難しさも分かっている。豚カツ屋の名店の付け合せで出てくるキャベツの千切りの美味しさは、自分でやってこそその難しさが分る。
いや・・・若い頃は分からなかったんですけどね。だからこそ、許しがたいと思ってしまうのが、松のやの豚カツに付いてくるキャベツの千切りのだ。これ、間違いなく機械で大量に作った千切りなんだよね。
はっきり言って私が切ったキャベツの千切りのほうが美味い。機械で切っているのですが、その切り方が荒い。上手に切れば、ふわっと柔らかい感触になるのに、バサバサした食感が不快。
でも文句を付けたことはない。だって、あの値段(ロースかつ定食で590円)で、あの豚カツのクオリティならば十分満足できるからだ。そりゃ個人経営の豚カツ屋ならば、もっと安い店もある。
しかし、大概は豚肉が薄かったり、衣が厚過ぎたりと、どこかしらでコストダウンを図っている。その点、松のやは豚カツの質を落としていないので、この点は高く評価できる。全国チェーンのお店で、これだけの品質の豚カツを安価で安定供給できるのは素晴らしい。
ちなみに松のやは、牛丼の松屋の系列店である。だからこそ不満が募る。松屋の牛丼に付いてくるキャベツの千切りのほうが美味いぞ?なぜに豚カツの付け合せのキャベツの千切りのほうが荒いのか。この点だけが納得いかないのだよねぇ。
ここ暫く忙しくて、ニュースもあまり見ていない。
だから、この事件がどこまで本当で、どこまで正しく伝えられているかは分からない。だから本来は、記事にするべきではないと思う。
なのだが、この事件、あまりにヒドイ。吐き気を催すほどのひどさだ。だから曖昧にして書く。興味がある方は、ご自身で調べて欲しい。念のために書いておくけど、本当にヒドイ事件です。
ちなみに事実として報じられているのは、北海道の旭川で凍死した女子中学生がいたことだけだ。彼女がイジメの犠牲者であるのか、それとも単なる自死なのか、その真相はネット上の情報だけでは判別しかねる。
ただ、被害者女学生が通っていた学校の教頭の発言はあんまりだ。「加害者児童にも人権はある」として被害者児童の人権は無視している。校長も似たり寄ったりで、自分たちも被害者だとして、いじめはないと断言している。
だから葬儀の席に、教師たちはもちろん加害者の家族も参列していない。担任に至っては「私になにができるんですか!」と逆切れしている始末である。
おそらく、このままではこの問題は今まで同様に無視され、なかったことにされる。
なぜなら、ここは日教組最強最悪と云われる北海道日教組が支配する地であり、市長は4期続けて左派系だ。当然に教育委員会も左派系に支配されている。いじめを苦に自殺したとされる子供よりも、教師と加害者の人権を守ることが大事だと確信している。
実は初めての事件ではない。1996年にもいじめで死んだ児童がいたが、これも見事に揉み消され、誰一人反省しなかった以上、同じことが繰り返されるのは当然である。
いじめにより苦しむ児童を無視するのは、大津市や山形だけではない。旭川を始めとして日本各地に今も存在している。
おかしなことに、いや当然かもしれないが地元である旭川のローカル新聞はもちろん、北海道のマスコミもこの事件を積極的には取り上げない。おそるべき隠蔽体質である。
これは私見だが、かつて国鉄が分割民営化された時、もっとも強硬に反対していた労働組合のメンバーが数多く北海道の地に追いやられた。おかげで、北海道の地は、他ではみられないほどに左派勢力が力を残している。
JRの国労だけではない。日教組の支配が最も強固なのも、やはり北海道である。当然にマスコミ各社も左派寄りの論調が目立つ。そのせいだろうが、北海道出身の学生が、本州へ渡り東京などで働き出すと、妙な発言をする人を散見する。
でも、そのうちに北海道がおかしかったのだと気が付く。北海道では絶大な人気を誇り、旧社会党の次世代のエースと呼ばれた横路・元知事は、全国では相手にされず、気が付いたら過去の人である。北海道を離れて初めて分かる、北海道のマスコミ、学校の異様さ。
北海道は食は美味しいし、風光明媚で人情味もある良いところだと私は思っている。しかし、もし子供がいたら北海道の学校には通わせたくない。きっとイジメが起きても、学校はなにもしてくれないし、むしろ揉み消され、なかったことにされるでしょうから。
困ったことに、前の安倍政権は比較的イジメ問題というか、左派勢力に対して引かなかったが、菅内閣は今のところ腰が引け気味である。このままだと、自殺した児童の性器の写真をばら撒いた加害者児童も、またその問題を見て見ぬ振りした担任と校長、教頭らも問題無しで見過ごされる可能性が高いと思います。
そうなれば、この先旭川の地でイジメにより自死する子供が、再び出る可能性は高いと思いますよ。
映画やドラマの小説化されたもので、元の作品よりも良かったことはない。
だから人気漫画BLEACHの連載終了後に、小説として刊行されたものは一切読んでいなかった。
ただ、ちょっと気になっていた。漫画BLEACHは無事ハッピーエンドとして終わったが、率直に言って不満が多く残った。その原因は、回収されていない伏線があまりに多かったことだ。
特に最終章である「千年血戦」篇は、あまりに謎が多く、割り切れぬ気持ちを抱えていた。だが、ネット上では熱心なBLEACHファンによるサイトなどで、激論が戦わされていた。
特に参戦する気はなかったが、どうやら幾つもの伏線が、小説版BLEACHで回収されているようだ。こうなると、気になって仕方ない。たまたま本屋で、その話題の小説を手に取ってみたら驚いた。
小説を書いていたのは、あの成田良吾であった。
ライトノベルで活躍している若手のなかでも、私は注目している一人である。「デュラララ」や「バッカーノ」などが有名だが、私が気に入っているのは、漫画の原作者としての成田良吾である。
私が今、一番気に入っている漫画「デットマウント・ディスプレイ」の原作者が成田良吾なのだ。この原作者、物語に伏線を挟むのが上手い。これならば、小説版BLEACHも期待できそうだ。
そう考えて手に取ったのが表題の作品である。はっきり言ってBLEACHのファン限定の面白さである。知らない人は読むだけ無駄な作品である。
だが、ファンならば満足のいく内容である。最強の斬魂刀だと言われた雨露柘榴とその使い手である痣城剣八と、私が一番好きな更木剣八との一戦は面白い。藍染やドン観音寺といったキャラが出てくるのも楽しめる。
ここのところ、ストレスの溜まり易い状況だったので、十分楽しませてもらいましたよ。
言論の自由なんて、空気次第でぶっとぶのが日本社会。
自民党の二階幹事長が、東京五輪に付いて開催中止もありうると発言したことが炎上している。
率直に言って、十分ありえることであり、事前にその対応ぐらい想定して対応策、事後策を検討するのが責任ある立場の人間だと思う。
しかし、現在の政府はなにがなんでも五輪開催だと決め付けている。この空気に水差す発言は、誰であろうと許さない。だからこそ、自民党の重職にある二階氏の発言を問題視したのだろう。
故・山本七平が喝破したように、やはり日本は空気を読むことが一番大事なのだろう。空気を読まない奴、水差す奴は断固排除する。
まさに空気原理主義ではないかと思う。もちろん言論の自由も無制限ではない。五輪担当大臣などが同様な発言をしたら、それは立場をわきまえぬ無思慮な発言でしかない。
しかし、二階幹事長はそのような立場ではあるまい。むしろ中止になる可能性を排除せず、その後の対応まで考えねばならぬ立場に近い。その自覚ゆえの発言だろうが、それが五輪開催絶対だとする人たちから、空気を乱すと攻撃されたのだろう。
で、自民党内部の内輪争いを嬉しそうに報道するマスコミ様って、どうよ?
日頃、言論の自由を超え高々に主張する癖に、時の権力者である二階幹事長の発言の自由は無視するんだね。
私はこの二階氏、あまり好きではないのだけれど、せめてマスコミだけは言論の自由を擁護する論調を打ち出すべきだと思いますけどね。
私が見てきたなかで、一番完璧なボクサー、それがハグラーであった。
ヘビー級が最強だとの評に水差す気はないが、80年代においてミドル級が一番面白かった。石の拳ロベルト・デュラン、ザ・ヒットマンことトーマス・ハーンズ、そしてシュガー・レイ・レナードと才能あるボクサーが続出したからだ。
その中でも、マーベラス(驚異)と呼ばれたのが、マービン・ハグラーだ。
私が初めて見た試合(もちろんTV観戦)は、アフリカのザ・ビーストことジョン・ムガビとの一戦であった。鮮やかにして鮮烈なKO勝利。攻守ともに隙がなく、しかも闘志溢れる強打者であり、戦うサイボーグなんて呼ばれ方もした。
しかし私のハグラーに対する印象は求道者。元来、ボクシングというスメ[ツにはある種の禁欲生活を強いる面がある。だが成功したプロボクサーの多くは、稼ぐ金に比例するように派手な生活を送り、散財する。
ところがハグラーは違ったらしい。地味な生活を続け、ただひたすらに練習に明け暮れた。その容貌から修行に没頭する求道者のような生き方をしていた。
これは、彼のボクサーとしての歩みが、地味というか不遇なものであったことが原因だと思う。そのボクサー歴のなかで、最初の敗北は不可解な判定負けであった。勝っても、なかなか世間の耳目を集めることが出来ずにいた。
不満はあったが、それでもハグラーはひたすら地味な練習に取り組み、あのサイボーグのように練りあがった体躯を作り上げた。その成果は、あの伝説のトーマス・ハーンズとの試合で活かされた。
長身でスピードあふれるハーンズは、派手で人気があり、ボクシング界のスター選手であった。試合前の予想では、ハーンズの勝利だとする声が多かった。
しかし、ハグラーは前評判を吹き飛ばした。この試合、もしハーンズがアウトボクシングに徹していれば、違う結果もあったかもしれない。しかし、ひたすらに前進を繰り返すハグラーの圧力に屈したハーンズは、打ち合いの試合をしてしまい遂に負けてしまった。
地味なハグラーにもよくやくスポットライトが派手に当てられた。しかし、ハグラーは頑なにスター選手であることを否定するかのような地味な生活と、繰り返す地道な練習を繰り返していた。
派手なKO勝ちが多いので観客は集まるが、そのあまりに頑ななスタイルは、大衆的な人気を得ることは出来なかった。いや、むしろ強すぎるが故に憎まれたかもしれない。
そんなハグラーを見て、網膜剥離で引退していたシュガー・レイ・レナードが現役に復活した。曰く「俺ならハグラーに勝てる」と。レナードは現役当時は、世界屈指のスピードを誇るフットワークを駆使し、柔軟な体躯でのディフェンスで相手を翻弄して、回転の速いパンチで勝つ天才肌のボクサーであった。
そして、レナードは復活した。ハグラーに挑戦することを宣し、それは全米のみならず世界中のボクシング・ファンの注目を集めた。私もその一人である。
剛のハグラー対柔のレナードといった試合は、屈指の名勝負となった。どちらも決定打に欠き、判定にもつれ込んだ。結果はレナードの判定勝ちであった。
技術的なことは私には分からないが、当時はそれなりに納得していた。引退から復活したレナードに対する声援が、判定勝ちの背景にあったと思う。
だが、私の周囲のボクシング好きには、ハグラーの勝利ではないかとの声は少なくなかった。これは故なきことではない。実際に最近、ユーチューブで試合を見直してみると、一貫して自分のスタイルを崩さないハグラーにダメージは少なく、むしろスタミナ切れのレナードが目に付く。
しかし、試合全体を通しての印象だと、頑ななハグラーに対する反感と、それを打破しようとするレナードに対する応援に気が付くようになる。ハグラーは決して観客に迎合することなく、常に自分のスタイルで戦いづつけた。
しかし、レナードは観客を意識しての戦いが出来る稀有なボクサーだ。ボクサーとしての優劣ではなく、興業といった面からすると人気者のレナードと、強すぎるが故に憎まれ者となったハグラーといった図式が見て取れる。
だからこそのレナードの判定勝ちであったと思う。そして、それに気が付いたハグラーは心が折れた。どんな強いボクサーとの対戦でも挫けない不屈の男は、自分のボクシングが支持されないことに衝撃を受けたのではないか。
なぜなんだ?そんな憤りを表に出すことなく、ハグラーは静かに引退した。そして派手な生活からは程遠い地道な人生を過ごして、先日逝去された。
私からすれば、ハグラーこそボクシングにおける真の求道者であった。謹んでご冥福をお祈りいたします。