私が見てきたなかで、一番完璧なボクサー、それがハグラーであった。
ヘビー級が最強だとの評に水差す気はないが、80年代においてミドル級が一番面白かった。石の拳ロベルト・デュラン、ザ・ヒットマンことトーマス・ハーンズ、そしてシュガー・レイ・レナードと才能あるボクサーが続出したからだ。
その中でも、マーベラス(驚異)と呼ばれたのが、マービン・ハグラーだ。
私が初めて見た試合(もちろんTV観戦)は、アフリカのザ・ビーストことジョン・ムガビとの一戦であった。鮮やかにして鮮烈なKO勝利。攻守ともに隙がなく、しかも闘志溢れる強打者であり、戦うサイボーグなんて呼ばれ方もした。
しかし私のハグラーに対する印象は求道者。元来、ボクシングというスメ[ツにはある種の禁欲生活を強いる面がある。だが成功したプロボクサーの多くは、稼ぐ金に比例するように派手な生活を送り、散財する。
ところがハグラーは違ったらしい。地味な生活を続け、ただひたすらに練習に明け暮れた。その容貌から修行に没頭する求道者のような生き方をしていた。
これは、彼のボクサーとしての歩みが、地味というか不遇なものであったことが原因だと思う。そのボクサー歴のなかで、最初の敗北は不可解な判定負けであった。勝っても、なかなか世間の耳目を集めることが出来ずにいた。
不満はあったが、それでもハグラーはひたすら地味な練習に取り組み、あのサイボーグのように練りあがった体躯を作り上げた。その成果は、あの伝説のトーマス・ハーンズとの試合で活かされた。
長身でスピードあふれるハーンズは、派手で人気があり、ボクシング界のスター選手であった。試合前の予想では、ハーンズの勝利だとする声が多かった。
しかし、ハグラーは前評判を吹き飛ばした。この試合、もしハーンズがアウトボクシングに徹していれば、違う結果もあったかもしれない。しかし、ひたすらに前進を繰り返すハグラーの圧力に屈したハーンズは、打ち合いの試合をしてしまい遂に負けてしまった。
地味なハグラーにもよくやくスポットライトが派手に当てられた。しかし、ハグラーは頑なにスター選手であることを否定するかのような地味な生活と、繰り返す地道な練習を繰り返していた。
派手なKO勝ちが多いので観客は集まるが、そのあまりに頑ななスタイルは、大衆的な人気を得ることは出来なかった。いや、むしろ強すぎるが故に憎まれたかもしれない。
そんなハグラーを見て、網膜剥離で引退していたシュガー・レイ・レナードが現役に復活した。曰く「俺ならハグラーに勝てる」と。レナードは現役当時は、世界屈指のスピードを誇るフットワークを駆使し、柔軟な体躯でのディフェンスで相手を翻弄して、回転の速いパンチで勝つ天才肌のボクサーであった。
そして、レナードは復活した。ハグラーに挑戦することを宣し、それは全米のみならず世界中のボクシング・ファンの注目を集めた。私もその一人である。
剛のハグラー対柔のレナードといった試合は、屈指の名勝負となった。どちらも決定打に欠き、判定にもつれ込んだ。結果はレナードの判定勝ちであった。
技術的なことは私には分からないが、当時はそれなりに納得していた。引退から復活したレナードに対する声援が、判定勝ちの背景にあったと思う。
だが、私の周囲のボクシング好きには、ハグラーの勝利ではないかとの声は少なくなかった。これは故なきことではない。実際に最近、ユーチューブで試合を見直してみると、一貫して自分のスタイルを崩さないハグラーにダメージは少なく、むしろスタミナ切れのレナードが目に付く。
しかし、試合全体を通しての印象だと、頑ななハグラーに対する反感と、それを打破しようとするレナードに対する応援に気が付くようになる。ハグラーは決して観客に迎合することなく、常に自分のスタイルで戦いづつけた。
しかし、レナードは観客を意識しての戦いが出来る稀有なボクサーだ。ボクサーとしての優劣ではなく、興業といった面からすると人気者のレナードと、強すぎるが故に憎まれ者となったハグラーといった図式が見て取れる。
だからこそのレナードの判定勝ちであったと思う。そして、それに気が付いたハグラーは心が折れた。どんな強いボクサーとの対戦でも挫けない不屈の男は、自分のボクシングが支持されないことに衝撃を受けたのではないか。
なぜなんだ?そんな憤りを表に出すことなく、ハグラーは静かに引退した。そして派手な生活からは程遠い地道な人生を過ごして、先日逝去された。
私からすれば、ハグラーこそボクシングにおける真の求道者であった。謹んでご冥福をお祈りいたします。