入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「春」 (56)

2020年05月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 牧場のキャンプ場内にも倒木がある。1本は桜の古木で、一昨年の冬に根から倒れた。そしてこの冬、今度はやはり同じような太さのコナシがその上に追い重なるように倒れ込んだ。面白いのは、どちらも一部の枝が生きていて、山桜は今花を咲かせ、コナシは蕾が若葉となり、それぞれがしたたかなところを見せている。 



 第1堰堤の八重紅枝垂れ桜もそろそろ花の時季を終える。この花にまつわる話をしておこうと思うが、呟きが長くなり、今日だけでは終わりそうもない。

 その昔、承久の変(1221)という朝廷対幕府の権力争いがあった。上伊那の地でも、信濃源氏として幕府側に加勢し、戦功を収めた飯島弘忠というという人がいた。彼は恩賞として、僻遠の地である奥出雲の地を与えられ、その後、孫の為長がその地に赴くや城を築き三沢城とし、自らの姓も飯島から三沢とした(この独り言を呟いている者も同性ではあるが、まったく縁もゆかりもないことを断っておきたい)。
 それで、なぜ三沢としたかというと、話は遠い昔の神話にまで近付くことになる。出雲が大和に国譲りをしたという神話、どこからが史的事実かは知らないが、出雲の国造は朝廷に出向き「神賀詞奉上(かむよごとのそうじょう)」という天皇の長寿と弥栄を祈る大掛かりな神事を行うようになった。毎年の年始の挨拶としてとか、天皇の代が変わった時にとかの説があるが、これは迎える側にとっても大ごとのようであったらしい。
 さて、国造が大和へ向かう際、身を清めるために潔斎を行わなければならないが、その場所がこの三沢城の地にあって「御沢」と呼ばれ(潔斎場所は他にも)ていた。その歴史にちなみ、為長自らも改姓を思い立ったのだろうが、ただし、「御」の字は神や天子に通じ畏れ多いため、「三」に変えたのだと推測される。
 その後、三沢一族は国司である尼子の有力な武将となるも、離れたり、裏切ったり、また付いたりと戦国の世をご多分に漏れずめまぐるしく生きたようだ。やがて1589年三沢城は廃城となり、いつしか一族の消息は歴史の流れの中に朦朧としていった。

 しかし、ここで話は終わらない。江戸時代の初期、一族の後裔の中に三沢初子という女性がいた。彼女は若くして両親を失い、紀伊という叔母に育てられたのだが、この女性は二代将軍秀忠の養女振姫(池田輝政の娘)の侍女として使えていた。同姫が仙台藩二代目藩主の忠宗に嫁すに際しては、紀伊も初子を連れて仙台に移ることになり、そこで初子の運命は大きく変わることになった。桜の話もこの後から始まる。(つづく)

 本日はこの辺で。何分雑駁な記憶や知識の為、誤りもあろうかと思います。ご指摘いただければ幸いです。資料は最後に示します。



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