IC443(くらげ星雲) Photo by かんと氏
寒の戻りなのか、寒い日が続く。もう、灯油は買わなくてもいいかと思っていたが、どうも覚束ない。一冬に灯油の消費量がどのくらいになるのかよく分からないが、仮に500リッターとして、一人暮らしの身に多いのか少ないのか。
この時期、いつまでということは決めていないが、断酒する。灯油代がかかるから、という理由ではない。「アルコール依存症ではなかったのか」などと冷やかす者もいるが、そんなことはない。
酒を飲むのは、自分の日々の生活が平安であるからで、その喜びと感謝の気持ちをこめて、一日を閉じる「祭り」というべきか、はたまた「儀式」と言うべきか、深い思いの中でそれを一人、毎夜執り行うのだ。したがって余程のことがない限り、紅灯の巷なぞで、この神聖な儀式はしない。
しかしなぜ、そんな大切な儀式を中断するかという理由は、ここには書かない。目標はおおよそ一カ月ほどで、八百万(やおよろず)の神々が出雲にお出でになり、国中に神々のいなくなる神無月があるごとく、酒無月があってもよいだろうという程度のことにしておきたい。
中断を決行する最初の日は、気合が入る。だから疲れる。しかしそれが、二日となり三日となると、それほどのことはない。手が震えるなどということも、もちろん、ない。いつでも、どこへでも、好きな時に車を運転できるという開放感もいい。
現在のように、「牧人の休日」を決めているときは、たまには、ささやかな贅沢をしてみたくなることがある。それがかの朝寝、朝酒、朝湯である。前夜の祭りの際には主食の米は食べないから、空腹感がかなりある。朝飯を作るまでのその間、冷えたビールでそれを紛らわせ、喉の渇きもついでに癒すというわけである。そして輝かしい、希望の一日に入っていくのだが、ただし、そういう日は一切、外出しない。
酒は神代の昔から神聖にして尊い。それをガバガバ、ドクドク浴びるように飲むようでは、いくら儀式とは言うものの、その有難味が、尊さが、知らず知らずのうちに薄れていってしまう。気を付けよう。酒は感謝と祈りのうちに、頂くべきものなのだから、クク。
時代遅れの山小屋「農協ハウス」の営業に関しましては、2月24日のブログなどをご覧ください。またお問い合わせは、JA上伊那東部支所組合員課(直通:0265-94-2473)までお願いいたします。安曇野のOKさんのお問い合わせには、明日お答えいたします。