何を言っても笑われる。
九九のハードルは越えたのに。
新学期初日。遠くの町からの転校生の心は震えている。
「私は 九九 を 半分しか習っていない。皆に付いていけるのか。」
大学卒業したてという担任の先生は
「大丈夫ですよ。こちらのみんなも 残り半分 これから勉強しますよ。」
そんなふうに 言ってくださったのだったろうか。
よかった。そう安心して 休み時間、まわりの子と話し始めると
一言一言 笑われているような気になった。
心配しなくてもいい 九九 の進度を心配していた割には
同じように話しているつもりの 言葉 の違いに気がついたのが そのときだったのだろうか。
頭で確認している強弱(高低?)と 口をついて出るアクセントは なかなか一致しなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
住まいが変わり 短い間にまた転校してしまった
(同じ路線をほんの数駅先。今だったら電車通学してたかな。残り学年数を考えたらやはり…。)
“入学式にも卒業式にも出ていない”学校。思い出は楽しいことばかり。
フレッシュマンの先生と 元気な子供たち。
始まりの時の 言葉の違い は いつの間にか気にならなくなっていた。
けれど 忘れたわけではなかった。
子育てに追われているとき 偶然
「よくひとりぼっちだった」モーリー・ロバートソン という本を手にした。
国を渡ったりハーバードにいったり だいぶ大きく広がった話だったが
転校の体験が私の手を引いているような 呼び込まれる本だった。
そこから続いたのか
行き来する言葉 というものが気になり
リービ英雄、多和田葉子、水村美苗…次々手に取り 読了できずに時が流れた。
須賀敦子の探した言葉、という評伝のようなものを読んだと記憶しているのに
作品そのものを思い出せない。
うろ覚えの内容は
「須賀さんは言葉を探していた。自分で息することのできる言葉を。」そんなふうだったと思うのだが。
行き来する言葉 を 超えて 自分の言葉を探す。さて、「越えて」なのか。
「ユルスナールの靴」・「私」の転校のあたりからの混乱を書きとめようとしたら
ごらんのように ますます混乱している。
「よくひとりぼっちだった」(再読)
「エクソフォニー 母語の外へ出る旅 」多和田葉子 と
混乱しているなりの道を歩いて 今日なここ。
不思議な(私が知らなかっただけだが)ラジオ?番組の中に
モーリーくんの声がしまわれていた。
初めて聞いたのに 懐かしかった。