市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

15年ぶりの長く厳しい冬から解放され若草が芽ぐむロシア沿海州の2カ月遅れの春(その4)

2012-05-22 23:50:00 | 国内外からのトピックス
■ナホトカは1961年から京都府の舞鶴市と姉妹都市の関係にあります。これは戦後日露(当時はソ連)間で初の姉妹都市提携でした。その後、北海道小樽市と1966年に、敦賀市と1982年に姉妹都市関係を結んでいます。第二次世界大戦後のシベリア抑留では、多くの日本軍元将兵がナホトカ港から帰国しました。帰還者らが最初に日本の土を踏んだ舞鶴が、この帰還事業で縁の深い関係にあるからです。

ピラミッドホテルの壁にある姉妹都市のシンボルを石で造った壁画。


■第二次世界大戦の終戦直前にソ連の参戦により捕虜になった多くの日本人が極東や奥地のシベリアに抑留されて、過酷な作業環境条件などにより多数の方々が亡くなりました。

 異郷で亡くなった日本人抑留将兵の墓地がナホトカにもありました。ナホトカ湾のかなり奥まった西側の山の斜面にあり、ナホトカ港や対岸がよく見渡せる場所です。

日本人墓地は見晴らしのいい高台にある。ただし海岸通りから、かなり急な坂を上って来ることになる。

 この日本人の抑留者の埋葬地は、戦後まもなくナホトカのセニャビン通りに設けられました。関東軍の573名の将兵の遺体がここに50年以上埋葬されていました。そこで2005年に日露両政府により、遺骨が収集され日本に帰還されました。

その後、ここに日本人墓地の石碑が建てられましたが、あまり訪れる人も無く荒れ放題になっていました。

■ところが最近になって、ナホトカ市役所の手で、第二次世界大戦の際に、ソ連軍の捕虜になりナホトカで亡くなった日本人抑留者の埋葬場所に、あらためて記念モニュメントが建立されることになったのです。

 たまたま、4月22日に当会の取材班が久しぶりに日本人墓地を尋ねたところ、忽然と日本人墓地と書かれた石碑が姿を消していました。

忽然と消えたナホトカの日本人墓地。4月22日撮影。

 「これは一大事だ!」と思って、周りを見渡すと、同じ空き地の一角で何やら工事をやっていました。


 現場監督をしていた中国系らしい人物に、中国語で話しかけると、完璧な中国語で返事がありました。

日本人墓地の移転先の造成工事中。左が施工業者の中国系ロシア人。完璧に中国語を喋る。

 現場監督か、はたまた社長なのか、その中国系ロシア人は、ロシア系作業者らに指示を出していましたが、その人物の話によると、ナホトカ市役所から発注を受けて、日本人墓地の石碑を新しい場所に移設し、道路から容易に参拝できるようにアプローチ用の歩道も作って、5月初めには完成させるのだそうです。

 その後、現場を訪れる機会がありませんでしたが、5月12日に完成したと報じられました。記事の写真を見ると、記念モニュメントは、天然石で囲われた円形の台座の上に石碑が載せられたもので、入口には石で造った鳥居と、その両側に燈篭が設けられています。
http://www.nakhodka-city.ru/news.aspx?id=19618&lang=eng

■この記念モニュメントは、ナホトカ市民に日本人抑留者のことを記憶してもらうためにナホトカ市役所が作ったものですが、ナホトカ市民に聞くと、ウラジボストクスカヤ通りやレーニン通り、ルナファルスキ通り、シビルスカイ通り、ポレバヤ通り、コムソモルスカヤ通りにある集合住宅は、日本人の元将兵らによって建設されたものであることを知っている人がたくさんいます。日本人が作ったこうした住宅はしっかりした作りなので、半世紀以上経過した今でも、人気があるとか。日本人抑留者らは鉄道の建設にも積極的役割を果たしました。

 統計データによると、1947年春には、約4万人の抑留者がナホトカに集められていたとあります。主要な収容キャンプ地は、バルハトナヤ鉄道駅周辺にあり、もうひとつはリブニイ港にありました。病院は極東海事学校の場所にありました。重病の抑留者らが収容されていたバラックは、現在のルス映画館のある場所にありました。最後の日本人将兵らがナホトカを後にして日本に帰国したのは1950年5月でした。

■現在、ロシア国民にとって、自動車をはじめとする日本製品への品質評価は、目を見張るものがありますが、この原点として、こうした日本人抑留者らの真面目な働きぶりと現存するかれら成果物の存在が、今でもロシア国民の意識の奥に刷り込まれているのかもしれません。

 4月7日に再度大統領職に就いたプーチン大統領は、今日、極東発展相という閣僚ポストを新設しました。現在、韓国製や中国製の商品に席巻されている沿海地方の市場ですが、品質にこだわるロシア極東の消費者に応えるためにも、日本企業も極東市場に注目して進出をはかり、クールジャパンの真髄を広めてもらいたいものです。

ナホトカ市と舞鶴市の友好の石。

舞鶴の友好の石の裏に落書きが・・。

友好の石の裏手にある日本海をイメージした斜面の表面には剥がれが見られる。地元の人によるとこの上にバイクのライダーが乗り上げたりして破損したのだという。早めの補修が望まれる。

こちらはナホトカ市と敦賀市の友好の庭の石碑。

しかしこの石碑の裏にも同様の落書きが・・。まだ最近つけられたようだ。

東屋と石庭が併設されている。以前はゴミだらけだったが最近はよく掃除がされている。裏手の山の木々ももうすぐ芽吹こうとしている。

【ひらく会情報部・海外取材班】

コメント
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