■ナホトカは1860年まで清の領土で、当時このあたりは外満州と呼ばれていました。
もともと沿海地方には、古くからツングース系民族が居住しており、古代から中世にかけて渤海(698~926年)、金(女真族、1115~1234年)等の国家が興亡を繰り返しました。中世から近世にかけては元、明、清国等の勢力が及んだ時期もありました。
↑1998年にナホトカから東北に約40km離れたボエツ・クズネツォフ地区でクシリエフという学者が女真族の遺跡を発掘。その後、5年前にポターニン基金が70万ルーブル(約210万円)で公募をし、遺跡発掘活動と古代村再現、それに子ども向け自然教育をテーマに応募したグループが認められ、現在活動中。写真は、女真族をテーマにして古代村の入り口にある案内図。
↑
↑女真族古代村の入り口。石器時代から、中世までの女真族の暮らしぶりを、実際に住居を模して作り、手作りの人形を配して再現している。↑
↑中世の再現家屋の中で、かまどの煙を床下に通して暖房していた再現オンドルの説明をする古代村の責任者イーゴリ氏。↑
↑再現された足踏み式米搗き器。↑
↑開村5周年記念のステージ。子どもたちの課外活動の発表用だという。↑
↑古代村からやぶ蚊に食われながら15分ほど山道を登ったところにある中世女真族の金帝国時代の街の発掘現場がある。現場を案内するイーゴリ氏。↑
↑オンドル跡を示す石の列。1軒あたりの床面積は46~50㎡。家族が平均6~8人住んでいたという。↑
↑夏場はオンドル用のかまどは不要なので、家の外に夏専用のかまどを設けた。↑
↑足踏み式米搗き器の石臼もそのまま残っている。↑
↑街は山の東南斜面に広がっていて、広さは27ヘクタール。周囲を城壁で囲み、2000人くらい住んでいたという。街跡の上のほうに、今でも滾々と湧き出る清水がある。飲んでみるとまろやかな味がした。↑
↑発掘現場は、夏はこのように木々が生い茂っているので見晴らしが良くないが冬季は落葉して遠くまでよく見渡せるという。女真族が打ち立てた金王朝は1115年から1234年まで続いたが、元に滅ぼされた。↑
■1850年代の前半、東シベリア総督ムラヴィヨフ・アムールスキーの支援でロシア海軍士官ネヴェリスコイが極東地域を探検し、アムール川流域に砦を建設して、ロシアの勢力が極東に進出しました。そして、1858年のアイグン条約でロシアはアムール川左岸とその航行権を得て、1860年の露清間の北京条約で、さらにウスリー川東岸を獲得し、現在の沿海地方がロシア領となりました。
そのころ、現在のナホトカ湾の存在をロシア人が“発見”しました。1859年6月18日、嵐の中、ロシア海軍の軍艦「アメリカ」が避難用の入江を探している途中、波の穏やかなこの湾を見つけたのです。そのため、ロシア語で「掘り出し物」を意味するナホトカという地名が付けられました。
■当時は、ナホトカ湾は現在のナホトカ市街のある湾の西奥の細長い入江のことでした。湾全体は軍艦の名前をとって、アメリカ湾と呼ばれていました。ところが1972年の中ソ国境紛争後は、ロシア極東から中国語地名が排除されて、アメリカ湾内にあったいくつかの入江もロシア語に改名され、同時にアメリカ湾も、ナホトカ湾に修正されました。
ウラジオストクからナホトカ市街に入る際に、湾を取り巻く山の峠を越えますが、ここはアメリカ峠と呼ばれていて、さらに峠を下って海岸通りにぶつかりますが、このT字型交差点付近の集落も「アメリカンカ」と呼ばれています。軍艦の名前から、1907年にナホトカの最初の集落の名前として命名されました。
ソビエト連邦時代の1936年、シベリア鉄道のウラジオストク-ナホトカ支線が完成しました。1940年から港の拡張工事が始まり、第二次世界大戦による中断を挟んで1946年に第一期工事が完了しました。この工事には、シベリア抑留の日本兵捕虜も参加させられました。1950年にナホトカ市は市に昇格し、その後も拡張を続け、太平洋艦隊の軍港都市である閉鎖都市のウラジオストクに代わって、ソ連極東貿易の拠点になりました。
↑ロシアの沿岸警備隊に拿捕された日本漁船が多数、ナホトカ港の一番外側に近い消波ブロック波止場の脇に係留されている。↑
■冒頭に述べたように、シベリア鉄道を利用する日本人をはじめ外国人乗客はナホトカから入国し、ハバロフスクまで特別列車を利用し、ここでモスクワに向かうように決められていました。
↑日本とナホトカとの間には、飯野海運が貨物船の定期航路を維持している。日本から主に中古車や中古バイクなどが多く輸出されている。かつては横浜~ナホトカの定期旅客航路があったが、ソ連崩壊後は、一時、日本側は富山県高岡市の伏木富山港から定期旅客航路が出ていた。しかし、その後休航となり、現在は、鳥取県境港から韓国のフェリー会社が、韓国の東海市経由で毎週1便、フェリーを運航している。後ろの丘の上に見えるのはナホトカのランドマークともいえるロシア教会。↑
1970年代、ナホトカ湾内の東部にあるウランゲリ湾において、ナホトカ港を凌ぎ、極東で最大規模のボストチヌイ港の建設が始まりました。ボストチヌイというのは「東方の」というロシア語の形容詞です。
その後はソ連経済の停滞の影響で、1990年にゴルバチョフ政権がウラジオストクを開放したため、商業港としての地位は低下しましたが、同年、ナホトカは自由経済地帯の適用をうけました。そのため、ナホトカ港湾局での通関手続や船の登録的続きは、今でも官僚的な手続が残るウラジオストク港湾局よりずっと効率がよく、ロシアの極東における重要な貿易港として機能しています。
■シベリアと同様に、沿海州の人口も少しずつ減少しています。やはりロシア人にとっては、ヨーロッパに近いほうが落ち着くのかもしれません。そのため、それを保管するかのように中国人が経済や社会面で進出しています。
かつては、中国が支配していたこの地域ですが、遠からず、中国人の進出で、いやおうなく中国への傾斜が進むと思われます。すでに、市場は、日常雑貨は中国製品の独壇場です。
↑中国資本が買い取ったナホトカ市内のホテル「遠東大楼」。 ↑
その次に韓国製品が電化製品や食品で幅を利かせています。日本製品は中古の乗用車やバイク、ボートなどが目に付きますが、貿易量は、中古自動車の輸入制限で激減しました。にもかかわらず、ナホトカの人たちの日本への関心は非常に高いものがあります。また、日本の化粧品や紙おむつなどトイレタリー分野の需要があります。もっと日本が進出する余地は大きいと思います。
↑1991年のソ連崩壊前まではナホトカに日本総領事館があったが、ウラジオストクが閉鎖都市でなくなってからウラジオストクに移転した。写真は在ウラジオストク日本総領事館の入口にある東日本大震災の復興を祈ってロシアの人たちが折ってくれた千羽鶴。↑
ちなみに、ロシア語で中国のことを、キタイと呼びます。これは、中国の10世紀頃まで、中国北部を支配していた民族ですが、当方に拡大を続けていたロシアにとって、最初に接した中国人は契丹人だったことを物語っています。英語で中国の旧名をCathay(キャセイ)というにも、この名残りです。モンゴル語でも、中国あるいは漢民族のことを、Hyatad(ヒャタドゥ)と呼ぶのも契丹に由来します。
【ひらく会情報部海外取材班・この項続く】
もともと沿海地方には、古くからツングース系民族が居住しており、古代から中世にかけて渤海(698~926年)、金(女真族、1115~1234年)等の国家が興亡を繰り返しました。中世から近世にかけては元、明、清国等の勢力が及んだ時期もありました。
↑1998年にナホトカから東北に約40km離れたボエツ・クズネツォフ地区でクシリエフという学者が女真族の遺跡を発掘。その後、5年前にポターニン基金が70万ルーブル(約210万円)で公募をし、遺跡発掘活動と古代村再現、それに子ども向け自然教育をテーマに応募したグループが認められ、現在活動中。写真は、女真族をテーマにして古代村の入り口にある案内図。
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↑女真族古代村の入り口。石器時代から、中世までの女真族の暮らしぶりを、実際に住居を模して作り、手作りの人形を配して再現している。↑
↑中世の再現家屋の中で、かまどの煙を床下に通して暖房していた再現オンドルの説明をする古代村の責任者イーゴリ氏。↑
↑再現された足踏み式米搗き器。↑
↑開村5周年記念のステージ。子どもたちの課外活動の発表用だという。↑
↑古代村からやぶ蚊に食われながら15分ほど山道を登ったところにある中世女真族の金帝国時代の街の発掘現場がある。現場を案内するイーゴリ氏。↑
↑オンドル跡を示す石の列。1軒あたりの床面積は46~50㎡。家族が平均6~8人住んでいたという。↑
↑夏場はオンドル用のかまどは不要なので、家の外に夏専用のかまどを設けた。↑
↑足踏み式米搗き器の石臼もそのまま残っている。↑
↑街は山の東南斜面に広がっていて、広さは27ヘクタール。周囲を城壁で囲み、2000人くらい住んでいたという。街跡の上のほうに、今でも滾々と湧き出る清水がある。飲んでみるとまろやかな味がした。↑
↑発掘現場は、夏はこのように木々が生い茂っているので見晴らしが良くないが冬季は落葉して遠くまでよく見渡せるという。女真族が打ち立てた金王朝は1115年から1234年まで続いたが、元に滅ぼされた。↑
■1850年代の前半、東シベリア総督ムラヴィヨフ・アムールスキーの支援でロシア海軍士官ネヴェリスコイが極東地域を探検し、アムール川流域に砦を建設して、ロシアの勢力が極東に進出しました。そして、1858年のアイグン条約でロシアはアムール川左岸とその航行権を得て、1860年の露清間の北京条約で、さらにウスリー川東岸を獲得し、現在の沿海地方がロシア領となりました。
そのころ、現在のナホトカ湾の存在をロシア人が“発見”しました。1859年6月18日、嵐の中、ロシア海軍の軍艦「アメリカ」が避難用の入江を探している途中、波の穏やかなこの湾を見つけたのです。そのため、ロシア語で「掘り出し物」を意味するナホトカという地名が付けられました。
■当時は、ナホトカ湾は現在のナホトカ市街のある湾の西奥の細長い入江のことでした。湾全体は軍艦の名前をとって、アメリカ湾と呼ばれていました。ところが1972年の中ソ国境紛争後は、ロシア極東から中国語地名が排除されて、アメリカ湾内にあったいくつかの入江もロシア語に改名され、同時にアメリカ湾も、ナホトカ湾に修正されました。
ウラジオストクからナホトカ市街に入る際に、湾を取り巻く山の峠を越えますが、ここはアメリカ峠と呼ばれていて、さらに峠を下って海岸通りにぶつかりますが、このT字型交差点付近の集落も「アメリカンカ」と呼ばれています。軍艦の名前から、1907年にナホトカの最初の集落の名前として命名されました。
ソビエト連邦時代の1936年、シベリア鉄道のウラジオストク-ナホトカ支線が完成しました。1940年から港の拡張工事が始まり、第二次世界大戦による中断を挟んで1946年に第一期工事が完了しました。この工事には、シベリア抑留の日本兵捕虜も参加させられました。1950年にナホトカ市は市に昇格し、その後も拡張を続け、太平洋艦隊の軍港都市である閉鎖都市のウラジオストクに代わって、ソ連極東貿易の拠点になりました。
↑ロシアの沿岸警備隊に拿捕された日本漁船が多数、ナホトカ港の一番外側に近い消波ブロック波止場の脇に係留されている。↑
■冒頭に述べたように、シベリア鉄道を利用する日本人をはじめ外国人乗客はナホトカから入国し、ハバロフスクまで特別列車を利用し、ここでモスクワに向かうように決められていました。
↑日本とナホトカとの間には、飯野海運が貨物船の定期航路を維持している。日本から主に中古車や中古バイクなどが多く輸出されている。かつては横浜~ナホトカの定期旅客航路があったが、ソ連崩壊後は、一時、日本側は富山県高岡市の伏木富山港から定期旅客航路が出ていた。しかし、その後休航となり、現在は、鳥取県境港から韓国のフェリー会社が、韓国の東海市経由で毎週1便、フェリーを運航している。後ろの丘の上に見えるのはナホトカのランドマークともいえるロシア教会。↑
1970年代、ナホトカ湾内の東部にあるウランゲリ湾において、ナホトカ港を凌ぎ、極東で最大規模のボストチヌイ港の建設が始まりました。ボストチヌイというのは「東方の」というロシア語の形容詞です。
その後はソ連経済の停滞の影響で、1990年にゴルバチョフ政権がウラジオストクを開放したため、商業港としての地位は低下しましたが、同年、ナホトカは自由経済地帯の適用をうけました。そのため、ナホトカ港湾局での通関手続や船の登録的続きは、今でも官僚的な手続が残るウラジオストク港湾局よりずっと効率がよく、ロシアの極東における重要な貿易港として機能しています。
■シベリアと同様に、沿海州の人口も少しずつ減少しています。やはりロシア人にとっては、ヨーロッパに近いほうが落ち着くのかもしれません。そのため、それを保管するかのように中国人が経済や社会面で進出しています。
かつては、中国が支配していたこの地域ですが、遠からず、中国人の進出で、いやおうなく中国への傾斜が進むと思われます。すでに、市場は、日常雑貨は中国製品の独壇場です。
↑中国資本が買い取ったナホトカ市内のホテル「遠東大楼」。 ↑
その次に韓国製品が電化製品や食品で幅を利かせています。日本製品は中古の乗用車やバイク、ボートなどが目に付きますが、貿易量は、中古自動車の輸入制限で激減しました。にもかかわらず、ナホトカの人たちの日本への関心は非常に高いものがあります。また、日本の化粧品や紙おむつなどトイレタリー分野の需要があります。もっと日本が進出する余地は大きいと思います。
↑1991年のソ連崩壊前まではナホトカに日本総領事館があったが、ウラジオストクが閉鎖都市でなくなってからウラジオストクに移転した。写真は在ウラジオストク日本総領事館の入口にある東日本大震災の復興を祈ってロシアの人たちが折ってくれた千羽鶴。↑
ちなみに、ロシア語で中国のことを、キタイと呼びます。これは、中国の10世紀頃まで、中国北部を支配していた民族ですが、当方に拡大を続けていたロシアにとって、最初に接した中国人は契丹人だったことを物語っています。英語で中国の旧名をCathay(キャセイ)というにも、この名残りです。モンゴル語でも、中国あるいは漢民族のことを、Hyatad(ヒャタドゥ)と呼ぶのも契丹に由来します。
【ひらく会情報部海外取材班・この項続く】
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