■ノリピーこと「酒井法子の報道から考えるメディアの使命」と題する記事がインターネット新聞JanJanに10月26日に掲載されました。当会が支援している元警察官の大河原さんが現在直面している問題について、後半に触れています。
大河原さんの問題は、わが国の明るい社会構築の実現のために、非常に重要な事例であるため、次に引用します。じっくりお読みください。
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〈酒井法子報道〉から考えるメディアの使命
酒井法子被告の初公判が10月26日の東京地裁前や傍聴席の20の座席を求めて希望者6615人が並んだという日比谷公園内はたいへんな人の数であった。地裁の駐車場出入り口には脚立は並ぶ、地裁職員が傍聴希望者の列をさばく…で、さながら地裁前は、どこかのコンサート会場周辺の様相を呈していた。
ところで、この一連の裁判劇の発端となった職務質問について考えてみよう。8月2日の夜10時半頃、東京渋谷の繁華街を歩く高相祐一被告にうしろから駆け寄った警察官3人が声をかけたことが、今回の一連の覚せい剤逮捕劇の発端である。
各新聞報道は、このあたりの経緯については、実にあっさりと書いている。「警察官が高相被告に職務質問をしたら、ズボンのポケットから覚せい剤が出て来たので逮捕した」――たいていのメディアはこうした論調で、むしろ、高相被告の逮捕よりも、酒井法子被告の逃亡劇などに早々と関心が移ってしまったようだ。
しかし、この職務質問から現行犯逮捕に至る場面で、大きな、そして素朴な疑問は無いだろうか。すなわち、渋谷の繁華街で、夜10時半ぐらいに歩く男性(高相被告)に、どうやって警察官3名は「当たり」をつけて職務質問をしたのか――という疑問である。
たしかに「警察官職務執行法(2条1項)」は「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者」や「既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者」への職務質問を認めている。
したがって、唐草模様の風呂敷に盗品らしきものをくるんで、男が頬かむりをしてキョロキョロしながらしのび足で横断歩道を渡っていたとか、警察官の一人が、麻薬犬をはるかにしのぐ嗅覚の持ち主で盗聴電波を感知する機器のように覚せい剤のにおいをかぎ分けたというのなら、渋谷の繁華街での職務質問もわかる話だ。
しかし、実際には高相被告は、ズボンの下に用心深く覚せい剤の包み(0.817グラム)を隠し持っていたのであって、いくらワインのソムリエ級の嗅覚でも、繁華街の中をわずか1グラムに満たない粉末を誰かが隠し持っているのをかぎ分けることは到底無理だろう。
8月2日午後10時半から「持ち物を見せろ」「いや見せられない」と押し問答が続き、妻の酒井法子被告も駆けつけ、そのまま2時間以上経ってから、ようやく高相被告は観念したように、ズボンの中の覚せい剤を差し出したという。
唐草模様の風呂敷や、麻薬犬なみの嗅覚というのは、半ばあり得ない想定だが、一部では「警察が高相被告をマークしており、言わば、泳がせていたのだ」という推理もされている。だが、一見するともっともらしく聞こえるこの推理も、おそらく成り立たない。
なぜなら、もし警察が高相被告をマークして泳がせていたのなら、どうして自宅にいるところを押さえないのかという点だ。高相被告が覚せい剤の常習者で、本当に「泳がせていた」としても、その夜の時間帯に職務質問をするということは、逃亡や証拠隠滅のリスクも伴う。なぜなら、路上で職務質問をしたところで、「何も持っていない」こともあり得るからだ。もし、覚せい剤の常習者が、何もポケットに持っていない状態で、夜遅い時間に警察官3名に声を掛けられたとしたらどうなるか――。「ポケットの中を見せて欲しい」と言われれば、その職務質問がたまたまゆきずりで声を掛けられたとしても「自分はマークされているのではないか」とその常習者は考えるだろうし、その場で何も持っていない場合には、自宅に帰って不都合なものを処分してしまうことは、ごく自然に考えられることだ。
だから、かりに特定の人物を一定期間内偵しているのであれば、任意の職務質問などではなく、証拠を固めてから逮捕状をとるだろう。そうすると、「泳がせていた」という推理もゆらぐことになる。
もう一つの疑問は、単なる「職務質問」が、2時間以上に及んでいる点だ。「所持品を見せて欲しい」と執拗に迫った3人の警察官は、何を根拠に、それほどまで高相被告に迫ったのかということだ。それは、あたかも、高相被告のズボンポケットに、絶対覚せい剤が入っていると確信しているような執念深さではないだろうか――。
その執拗さは、「何としても社会正義を実現する」という警察官としての強い信念なのか、あるいは職業的な直感なのか、それとも――。新聞報道は、この点についてふれていないが、警察問題に詳しいある弁護士は、今回の逮捕劇に関連して、警察官らによる〈やらせ捜査〉の実態を話してくれた。
それによれば、現場の警察官の仕事の評価は、各警察署に割り振られる達成目標数(ノルマ)をどれだけ達成できたか、更には超えられたかによって決まるという。だから、〈スピード違反〉の「ネズミ捕り」は、スピード違反による事故多発場所ではなく、多くの運転者が道路状況から安全だと思ってスピードを上げてしまいそうな場所で行われる。そして、「ネズミ捕り」でポイントを稼ぐような警察官は、その日のノルマが果たせれば、さっさと仕事を切り上げて帰ってしまうそうである。
それでは、〈覚せい剤〉の取り締まりの場合はどうするのか――。
〈覚せい剤〉の場合、常習者がよく薬物を吸引しそうな公園などはありそうもない。それらしき公園を張り込んでいても、吸引現場を押さえられるはずがない。そうかと言って、繁華街を歩く若者に手当たり次第に声をかけたところで、素直にポケットの中身を見せてくれるとは限らないし、出て来るのは百円ライターか小銭くらいだろう。
その弁護士は、「刑事弁護をふつうに手がけてきた弁護士なら大抵知っていることだと思いますけどね…」と前置きして、現場の警察官が覚せい剤の売人と「手を組む」という方法を教えてくれた。その弁護士に言わせれば、この方法はそう珍しいことではないらしい。
警察官が薬物を路上で売っている外国人を見つける。その手の外国人の多くは日本での在留資格が無いことを知っているので、警察官は次のように切り出す。
「おまえは逮捕しない。その代わり覚せい剤を買いに来る人間を“紹介”してくれ」
売人のほとんどは在留資格がないので日本でまともな仕事に就けない。しかし本国に強制送還されても、本国ではもっと仕事が無い。だから、何としても日本に留まりたい。その弱みに一部の警察官はつけこむわけである。警察官に取り引きを持ちかけられて、売人に「いやだ」という選択肢があるはずがない。商談成立ののち、その売人は、自らの不法滞在と薬物売買を見逃してもらう代わりに、“顧客”を警察官に売るのだという。
警察官にとって、この方法のよいところは、苦労しないで確実に仕事上の実績(ノルマ)を上げることができるという点だ。売人にとっても、警察官に売る顧客はたいてい小口(こぐち)なので、その顧客逮捕によって収入減になることはないし、顧客同士はお互いに面識がないので、「あの売人が顧客を警察に売ったから、気をつけろ」などという書き込みがインターネットに流れることはまずない。
「しかし、いつも買人だけしか逮捕しないと、上司から不審がられますし、そうは言ってもその上司も同じことをしていたはずなのですが、検察官や裁判官にも疑問に思われるようになるのもまずいことです。だから、たまには売人を逮捕しなければならなくなります。そんな時に逮捕されるのは決まって外国人です。彼らはそれまで警察官のお陰でしばらくの期間、国外退去にならず、それなりの仕事(売り上げ)も稼げたのですから、逮捕されても文句の言えるすじ合いではない、これはある意味で、実によくできた仕組みです」
人身御供(ひとみごくう)として、〈やらせ捜査〉の犠牲になる顧客は、まさか警察官と路上の売人との間で、そんな裏取引が行われているとは知らないから、いつものように路上でショッピングを済ませて、晴れやかな気分で帰路につくと、知らない間に背後から複数の警察官につけられるということが起こる。そのからくりを教えてくれた弁護士は、何度か過去に経験したことを話してくれた。
「横浜駅付近、上野駅付近、渋谷駅付近、新宿駅付近など、馴れて来ると、どの辺りに売人がいるか、だれが売人か買う側も大体わかって来るそうです。当然、現場の警察官も知っているはずです。数年前に当番弁護士でついた渋谷駅付近で捕まった被疑者の場合は露骨でした。外国人の売人が顧客に覚せい剤の引き渡し場所として指定したのが、何と路上の電話ボックスの中です。売人は周りから丸見えのところで買いに来た男に品物を渡しました。その直後から買った男は警察官に尾行され、そしてお決まりの職務質問です。薬物が出てきて、ただちに逮捕――。そう言えば、酒井法子被告の夫、高相祐一被告の逮捕場所も渋谷でしたね、何か妙な因縁も感じます」
記者にその話をしてくれた弁護士は、そういう警察の手法もさることながら、「その手の逮捕劇に、マスコミは知ってか知らずか、ちっとも疑問を差し挟むようなことを言わないんだよなぁ…」といささか不満げであった。
「だって、そうでしょう…。どんなに職業的直感に優れた警察官だって、繁華街の中を歩く特定の人物のポケットに覚せい剤が入っていると見込みをつけて、その人物を取り囲んで、2時間近く粘るなんてことは不自然だと思いませんか――。『これは裏に何かある』と思うのがふつうではないでしょうか。特に、報道に携わる者は、そういう一般の人が見落としがちなところに切り込んでいくのが仕事でしょう?」
たしかに、今回の高相被告の逮捕劇も、どうして渋谷の繁華街で大勢の人が行きかう中で、警察官3人は的確に高相被告に職務質問をすることが出来たのか――、考えてみると不思議である。
そのことをその弁護士に尋ねてみると、「私がこれまで体験して来たことと、高相被告との逮捕劇が同じ性質のものか、すぐには断言できません、しかし、今回の一連の報道を見ていると、肝心の部分についての考察が、どの新聞やテレビ局もなさ過ぎます。そういう報道のありかたで、本当に報道の使命が果たせるのか、疑問です」との答えが返って来た。(中略)
示唆に富む話をしてくれたのは、都内に事務所を構える、清水勉弁護士だ。清水弁護士は、岩手県警がある男性を「被疑者」とせずに「犯人」として指名手配のポスターに記載した「17歳少女殺人事件」(2008年7月)や、群馬県警の現職警部補への不当・でっちあげ逮捕(2004年2月)、高知県警の“人身御供(ひとみごくう)”懲戒免職事件(2006年7月)、パトカー暴走人身事故事件(2007年12月)、任意捜査指紋・顔写真強制事件(2009年9月)などで、警察権力のあり方に警鐘を鳴らす人物として知られている。事務所で、具体的エピソードを交えて、報道のあるべき姿について話を聞いた。
〔記者〕酒井法子被告に関連した、覚せい剤の〈やらせ捜査〉のお話、あれは、まさに「目からウロコ」という印象でした。
〔清水〕職務質問で覚せい剤所持が発覚することが、絶対に無いとは言いませんが、確率的にほとんどゼロです。警察官が歩いている対象地域で動き回っている人の数と、歩き回る警察官の人数の差を想像してみてください。渋谷駅周辺のような繁華街では、膨大な数の人間が人波となって流れていくわけです。その流れに対して、わずか数人の警察官らが、どんなに目を凝らしたところで覚せい剤を隠し持った人間を黙視だけで探し出せるでしょうか、自分が警察官になったつもりで考えて欲しい。無理でしょう。
〔記者〕〈やらせ捜査〉が生まれてくる土壌として、原田宏二氏(元北海道警釧路方面本部長)は「交通違反の摘発件数、少年補導件数、泥棒の検挙件数、暴力団員の検挙数、などなど警察のありとあらゆるところに『努力目標』という名前のノルマが存在する。」と指摘し、次のように書いています。
「ノルマ主義、これは『ごまかし』の始まりである。これは間違いなく警察官としての自信も誇りも失わせていく。現場で粘り強く地道に仕事をしようとする警察官は、報われることはない。現場で『ごまかし仕事』をうまくこなす警察官ほど幹部に昇任していく。そして現場で『ごまかし仕事』が当たり前のように横行することになる。」 (『警察VS警察官』P20~21)
〔清水〕警察官のそうした実態をわかっていながら、報道機関がそれを世の中に知らせないのは、《記者クラブ制度》が報道の基盤になっているからです。新聞社・テレビ局など記者クラブ加盟社は日々、役所から情報をもらってそれを記事にして報道しています。警察もその1つです。取材する側とされる側が毎日顔を合わせていると、そこには自然と“あうん”の呼吸が生まれます。「これは書くな」と言われなくても書かない信頼関係、もたれ合い関係です。警察の組織的な不正を記事にしようとする記者が現れないのはそのためです。あまりの酷さに記事を書いても、編集デスクが記事にストップをかけます。警察から出入り禁止にされ、情報がもらえなくなると困るからです。
〔記者〕以前、大手新聞社の記者に警察の〈裏金〉について、どうして追及しないのかを尋ねたところ、「警察は水源を持っている大地主、メディアは小作農だ」と比喩的に、その力関係を説明してくれました。つまり、大地主に水を止められたら、小作農(メディア)は何も作物(記事)が作れない、「商売あがったりだ」ということらしいです。
〔清水〕まぁ、そういう比喩も当たっていないこともないでしょう…。また現場の一記者が、どんなに頑張っても、できることの限界はあります。ただ、そういう現場記者の嘆きもわかるのですが、制度そのものの廃止論争以前に、現場の記者一人ひとりが、ちょっとしたことに気を配れば、報道はもっと正確になり、結果として、私たちの《知る権利》は、よりよく保障されるようになるのではないかと思います。
ひとつ具体的な話をします。それは、現在、前橋地裁で進められている、現職警察官(当時)をめぐる、不当逮捕・冤罪事件についてです。この事件を、メディアがどう書いたか――、たいへんわかりやすい話です。
〔記者〕この事件は現在も進行中とのことで、たいへん興味深いです。
〔清水〕2004年2月、群馬県警本部に配属されている警察官ら10名余が、道路運送車両法違反の疑いで、ある現職警察官(警部補)が借りていた乗用車の差押(さしおさえ)に来ました。本来なら、地元の高崎署が管轄警察署として処理すべき事件です。それを、管轄警察署を無視して県警本部だけで対応するというのは極めて異常です――、ここにも、この事件を解く鍵は隠されていますが、今はおきます。
新聞各紙は、「車から偽造プレートを外し警察官に体当たりした。」(上毛新聞)、「差し押さえに来た警視に体当たりするなどして暴れ」(讀賣新聞)、「車のナンバーを調べようとしたところ、警視に体当たりするなどして捜査を妨害した」(毎日新聞)と県警の言い分を報道していますが、逮捕された警部補の言い分は、どの新聞にも書かれていません。
考えてもみて下さい。
例えば、警察が、「どこどこの○○を窃盗の容疑で逮捕した」と発表します。もちろん「○○」と、実名が出ます。例えば、「新宿区在住の○○太郎(28)を・・・窃盗容疑で逮捕した」と発表するわけです。そうした事実関係、人名や逮捕容疑も重要ですが、そのことを本人が「認めている」のか、「認めていない」のか、これを書くことは報道に従事する人たちにとっては、基本中の基本のはずですし、逮捕された人の、社会に対するわずかなメッセージとしても重要です。ですから、通常、逮捕された人の言い分も記事に書かれます。
ところが、群馬県警のケースでは、新聞で何度も「体当たりした」ことが報道されているのに、本人がどのように言っているのかを記事にしたものは1つもありませんでした。
〔記者〕そもそも、いつから「体当たり」が出て来たのでしょうか。
〔清水〕逮捕された時は、乗用車の前部に取り付けた紙製のナンバーを引き剥(は)がしたことが「公務執行妨害」だと言われました。警部補が直前に見せられた差押許可状には、罪名が「道路運送車両法違反」と書かれているだけで具体的な内容がわかりませんでした。差押対象物は「乗用車」とだけが書かれていました。それで自分が取り付けた物を自分で引き剥がすことは問題ないだろうと思い、引き剥がしたら、警察官らが数人駆け寄ってきて警部補を組み伏せ、しばらくしてから、現場責任者の警視が本部と相談の上、「破ったんだから、公妨(こうぼう)でいい」「現行犯逮捕」と言って、警部補を逮捕したのです。ビデオ映像をみると、周りの警察官らも警視の「現行犯逮捕」に呆然としているようでした。この時点では「体当たり」の話は出て来ません。
「体当たり」の話が出て来るのは、警部補が逮捕された日の午後の取調べからです。警部補は身に覚えのないことだったので、はっきり否認しました。以後、彼は、一貫して否認しています。
現行犯逮捕された警部補は、現職警察官の事件ということで報道されることは予想していました。その内容は、自分が紙のナンバープレートを破いたことが「公務執行妨害」になるというものだと考えていました。まさか、マスコミ報道で「警察官に体当たり」(上毛新聞)などとなっているとは夢にも思っていなかったのです。
〔記者〕警部補はいつ「体当たり」報道されていることを知ったのでしょうか。
〔清水〕逮捕後しばらくして、拘置所に面会に来た父親と兄から報道内容を聞かされて、初めて知ったのです。警部補が「体当たり」を否認していることが記事に書いてなかったので、父親も兄も警部補が「体当たり」したと思い込んでいたということでした。「自分が警視に体当たりして逮捕された、と報道されている」――つまり自分の経験したこととは全く違うことが、まことしやかにメディアによって報道されていることを、彼はこのとき初めて知るのです。
が、時すでに遅しです。世の中の人はだれもが、彼のことを「警察官に体当たりして逮捕されたとんでもない警察官だ」と思い込んでしまっています。どうしてそういうことが起こったのかと言えば、《記者クラブ》の記者たちが、警察発表をそのまま記事にして、警部補の言い分をどこも掲載しなかったからです。
ふつうは、「警察によれば…○○警部補が、訪れた群馬県警の関係者に体当たりをしたとして逮捕された」のあと、「本人は逮捕容疑を認めている」とか「本人は容疑を否認している」と書くでしょう。そんなことは、報道として当然です。それが今回の事件の記事には一切ないのです。
〔記者〕記事の構成上、「容疑を認めているか/否認しているのか」は、あるのと無いのとではまったく印象が違いますね。
〔清水〕実は、この事件は深いところに〈根〉を持っています。発端は1996年11月に、その警部補が自らの正義感から、捜査費の裏金作りを経理担当職員や上司に抗議したことです。翌年3月、彼はそれまでの出世コースから露骨に外され、田舎の交番に左遷されます。警察組織内部では、交番勤務の警察官には捜査をさせないことになっています。それまで捜査の一線にいた警察官を捜査のできない交番勤務に回すということは、「警察官を辞めろ」という意味なのです。しかし、交番勤務であっても警察官の仕事に誇りを持っている警部補は、警察官を辞めませんでした。
全国的に見ると、2003年7月、高知県警本部捜査第一課の捜査費裏金作り一覧表を地元紙が入手し、紙面を使って執拗な追及を始めました。警察庁は全国への飛び火を懸念して、警視庁、道府県警察本部に要注意人物のチェックを指示します。群馬県警の警部補は、かつて裏金作りを批判し、その後も“反省”の態度がない要注意警察官でした。
その年の11月、テレビ朝日系列の番組『ザ・スクープ』が全国の警察の裏金づくりを特集し、警部補はこの特集番組の第2弾に協力しました。警部補の日常生活を監視していた監察(群馬県警)は、警部補がテレビ番組の取材に応じていることに気づいたはずです。そうなると、大急ぎで、警部補を黙らせるか、社会的信用を失墜させるか、とにかく手を打つ必要があります。警部補は監察による日常生活の監視を免れるために、紙ナンバーによるNシステム逃れをしていました。それを注意し止めさせるという対応をしないで、県警本部だけで「事件」として処理したのは、高崎警察署の警察官に取調べをさせると、なぜ警部補が紙ナンバーをつけるようになったかを高崎署の警察官たちも知ることになり、県警本部の裏金作りまで知られることになるという危険があったからです。それで管轄の高崎署を一切関わらせなかったのです。
いまの新聞やテレビに、そこまで報道しろとは要求しません。警察と《記者クラブ》の関係からして、それは無理です。
しかし、逮捕された警部補の言い分を書くだけなら、記事の基本ですから、できるはずです。「現職の警察官が、県警関係者に体当たりしたとして、公務執行妨害で逮捕された」とだけ書くのと、「現職の警察官が、県警関係者に体当たりしたとして、公務執行妨害で逮捕された。本人は、逮捕事実を一貫して否認している。」と【わずか20字】つけ加えるのとでは、読み手の受ける印象は全く違います。警察の記者会見の場でも、「本人は認めているのですか?」ぐらいの質問はできるはずですし、警察や検察に対して取材を重ねていても、現場にいた目撃者に当時の状況を取材しても、「体当たり」報道が一方的だということはすぐにわかったはずです。
今回の、高相祐一被告の覚せい剤事件に関する報道も、私から見れば、「ああ、これもか」という感じです。《記者クラブ》での警察発表があった時に、「夜10時半の渋谷での雑踏で、〈高相被告が覚せい剤を所持している〉との確信をどうして警察官は持ったのか」と、なぜ記者たちは聞かないのでしょうか。
5年前の全国紙を当たってみた。すると、確かに、その“事件”について報道がされている。
「調べによると、○○○容疑者は16日午前8時ごろ、自分の乗用車に偽造ナンバープレートを付けているとして道路運送車両法の疑いで自宅から任意同行しようとした県警交通指導課員に体当たりした疑い。○○○容疑者は取り乱しており、詳しい事情は聴けていないという。」(2004.2.17 朝日新聞 第31面)
この記事について、清水弁護士に尋ねてみた。
「警部補は取り乱しておらず、それどころか、しっかり否認していました。そのことは供述調書にはっきり出ています。『容疑者は取り乱しており、詳しい事情は聴けていない』は完全なウソです。朝日新聞が勝手にウソを書く理由はありませんから、これは群馬県警のウソです。取り乱しているという言葉を信じるにしても、翌日、翌々日に改めて警部補の言い分を確認してもよかったはずです。現職の警察官が公務中の警察官に体当たりして現行犯逮捕されるという事実は、それが事実なら、懲戒免職にならなくても、警察官として辞職すべきです。しかし、もしねつ造なら、ねつ造した者こそ懲戒免職処分を受けるべきであるし、そうならないなら辞職すべきです。そういう大事件なのに、どの新聞社も警察の発表を口を開けて待っているだけ。これを《記者クラブ》の悪弊と言わずして、なんと言えばいいのでしょう」
現在、〈冤罪〉に対する世論の高まりが見られる。しかし、本当に伝えるべきことを、メディアが伝えているのか、清水弁護士の言うように、【わずか20字】を加えるか/加えないかで、記事の生き死にが決まるだろうし、書かれるべき【20字】の有る/無しで、書かれた人間の生活も大きく左右されてしまうことは明らかだ。
清水弁護士から話を聞いた直後に、新聞に興味深い記事が載った。それは「京大生が覚せい剤所持で逮捕」というニュースである。改めて、清水弁護士に、それらの記事を見せると、「これですよ」と言って、にやりとした。朝日、読売、毎日、産経といった大手メディアの伝えた「京大生、覚せい剤で逮捕」の報道を例に、次回改めて「メディアの使命」について考える。 【三上英次2009/10/26】
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【ひらく会情報部】
大河原さんの問題は、わが国の明るい社会構築の実現のために、非常に重要な事例であるため、次に引用します。じっくりお読みください。
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〈酒井法子報道〉から考えるメディアの使命
酒井法子被告の初公判が10月26日の東京地裁前や傍聴席の20の座席を求めて希望者6615人が並んだという日比谷公園内はたいへんな人の数であった。地裁の駐車場出入り口には脚立は並ぶ、地裁職員が傍聴希望者の列をさばく…で、さながら地裁前は、どこかのコンサート会場周辺の様相を呈していた。
ところで、この一連の裁判劇の発端となった職務質問について考えてみよう。8月2日の夜10時半頃、東京渋谷の繁華街を歩く高相祐一被告にうしろから駆け寄った警察官3人が声をかけたことが、今回の一連の覚せい剤逮捕劇の発端である。
各新聞報道は、このあたりの経緯については、実にあっさりと書いている。「警察官が高相被告に職務質問をしたら、ズボンのポケットから覚せい剤が出て来たので逮捕した」――たいていのメディアはこうした論調で、むしろ、高相被告の逮捕よりも、酒井法子被告の逃亡劇などに早々と関心が移ってしまったようだ。
しかし、この職務質問から現行犯逮捕に至る場面で、大きな、そして素朴な疑問は無いだろうか。すなわち、渋谷の繁華街で、夜10時半ぐらいに歩く男性(高相被告)に、どうやって警察官3名は「当たり」をつけて職務質問をしたのか――という疑問である。
たしかに「警察官職務執行法(2条1項)」は「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者」や「既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者」への職務質問を認めている。
したがって、唐草模様の風呂敷に盗品らしきものをくるんで、男が頬かむりをしてキョロキョロしながらしのび足で横断歩道を渡っていたとか、警察官の一人が、麻薬犬をはるかにしのぐ嗅覚の持ち主で盗聴電波を感知する機器のように覚せい剤のにおいをかぎ分けたというのなら、渋谷の繁華街での職務質問もわかる話だ。
しかし、実際には高相被告は、ズボンの下に用心深く覚せい剤の包み(0.817グラム)を隠し持っていたのであって、いくらワインのソムリエ級の嗅覚でも、繁華街の中をわずか1グラムに満たない粉末を誰かが隠し持っているのをかぎ分けることは到底無理だろう。
8月2日午後10時半から「持ち物を見せろ」「いや見せられない」と押し問答が続き、妻の酒井法子被告も駆けつけ、そのまま2時間以上経ってから、ようやく高相被告は観念したように、ズボンの中の覚せい剤を差し出したという。
唐草模様の風呂敷や、麻薬犬なみの嗅覚というのは、半ばあり得ない想定だが、一部では「警察が高相被告をマークしており、言わば、泳がせていたのだ」という推理もされている。だが、一見するともっともらしく聞こえるこの推理も、おそらく成り立たない。
なぜなら、もし警察が高相被告をマークして泳がせていたのなら、どうして自宅にいるところを押さえないのかという点だ。高相被告が覚せい剤の常習者で、本当に「泳がせていた」としても、その夜の時間帯に職務質問をするということは、逃亡や証拠隠滅のリスクも伴う。なぜなら、路上で職務質問をしたところで、「何も持っていない」こともあり得るからだ。もし、覚せい剤の常習者が、何もポケットに持っていない状態で、夜遅い時間に警察官3名に声を掛けられたとしたらどうなるか――。「ポケットの中を見せて欲しい」と言われれば、その職務質問がたまたまゆきずりで声を掛けられたとしても「自分はマークされているのではないか」とその常習者は考えるだろうし、その場で何も持っていない場合には、自宅に帰って不都合なものを処分してしまうことは、ごく自然に考えられることだ。
だから、かりに特定の人物を一定期間内偵しているのであれば、任意の職務質問などではなく、証拠を固めてから逮捕状をとるだろう。そうすると、「泳がせていた」という推理もゆらぐことになる。
もう一つの疑問は、単なる「職務質問」が、2時間以上に及んでいる点だ。「所持品を見せて欲しい」と執拗に迫った3人の警察官は、何を根拠に、それほどまで高相被告に迫ったのかということだ。それは、あたかも、高相被告のズボンポケットに、絶対覚せい剤が入っていると確信しているような執念深さではないだろうか――。
その執拗さは、「何としても社会正義を実現する」という警察官としての強い信念なのか、あるいは職業的な直感なのか、それとも――。新聞報道は、この点についてふれていないが、警察問題に詳しいある弁護士は、今回の逮捕劇に関連して、警察官らによる〈やらせ捜査〉の実態を話してくれた。
それによれば、現場の警察官の仕事の評価は、各警察署に割り振られる達成目標数(ノルマ)をどれだけ達成できたか、更には超えられたかによって決まるという。だから、〈スピード違反〉の「ネズミ捕り」は、スピード違反による事故多発場所ではなく、多くの運転者が道路状況から安全だと思ってスピードを上げてしまいそうな場所で行われる。そして、「ネズミ捕り」でポイントを稼ぐような警察官は、その日のノルマが果たせれば、さっさと仕事を切り上げて帰ってしまうそうである。
それでは、〈覚せい剤〉の取り締まりの場合はどうするのか――。
〈覚せい剤〉の場合、常習者がよく薬物を吸引しそうな公園などはありそうもない。それらしき公園を張り込んでいても、吸引現場を押さえられるはずがない。そうかと言って、繁華街を歩く若者に手当たり次第に声をかけたところで、素直にポケットの中身を見せてくれるとは限らないし、出て来るのは百円ライターか小銭くらいだろう。
その弁護士は、「刑事弁護をふつうに手がけてきた弁護士なら大抵知っていることだと思いますけどね…」と前置きして、現場の警察官が覚せい剤の売人と「手を組む」という方法を教えてくれた。その弁護士に言わせれば、この方法はそう珍しいことではないらしい。
警察官が薬物を路上で売っている外国人を見つける。その手の外国人の多くは日本での在留資格が無いことを知っているので、警察官は次のように切り出す。
「おまえは逮捕しない。その代わり覚せい剤を買いに来る人間を“紹介”してくれ」
売人のほとんどは在留資格がないので日本でまともな仕事に就けない。しかし本国に強制送還されても、本国ではもっと仕事が無い。だから、何としても日本に留まりたい。その弱みに一部の警察官はつけこむわけである。警察官に取り引きを持ちかけられて、売人に「いやだ」という選択肢があるはずがない。商談成立ののち、その売人は、自らの不法滞在と薬物売買を見逃してもらう代わりに、“顧客”を警察官に売るのだという。
警察官にとって、この方法のよいところは、苦労しないで確実に仕事上の実績(ノルマ)を上げることができるという点だ。売人にとっても、警察官に売る顧客はたいてい小口(こぐち)なので、その顧客逮捕によって収入減になることはないし、顧客同士はお互いに面識がないので、「あの売人が顧客を警察に売ったから、気をつけろ」などという書き込みがインターネットに流れることはまずない。
「しかし、いつも買人だけしか逮捕しないと、上司から不審がられますし、そうは言ってもその上司も同じことをしていたはずなのですが、検察官や裁判官にも疑問に思われるようになるのもまずいことです。だから、たまには売人を逮捕しなければならなくなります。そんな時に逮捕されるのは決まって外国人です。彼らはそれまで警察官のお陰でしばらくの期間、国外退去にならず、それなりの仕事(売り上げ)も稼げたのですから、逮捕されても文句の言えるすじ合いではない、これはある意味で、実によくできた仕組みです」
人身御供(ひとみごくう)として、〈やらせ捜査〉の犠牲になる顧客は、まさか警察官と路上の売人との間で、そんな裏取引が行われているとは知らないから、いつものように路上でショッピングを済ませて、晴れやかな気分で帰路につくと、知らない間に背後から複数の警察官につけられるということが起こる。そのからくりを教えてくれた弁護士は、何度か過去に経験したことを話してくれた。
「横浜駅付近、上野駅付近、渋谷駅付近、新宿駅付近など、馴れて来ると、どの辺りに売人がいるか、だれが売人か買う側も大体わかって来るそうです。当然、現場の警察官も知っているはずです。数年前に当番弁護士でついた渋谷駅付近で捕まった被疑者の場合は露骨でした。外国人の売人が顧客に覚せい剤の引き渡し場所として指定したのが、何と路上の電話ボックスの中です。売人は周りから丸見えのところで買いに来た男に品物を渡しました。その直後から買った男は警察官に尾行され、そしてお決まりの職務質問です。薬物が出てきて、ただちに逮捕――。そう言えば、酒井法子被告の夫、高相祐一被告の逮捕場所も渋谷でしたね、何か妙な因縁も感じます」
記者にその話をしてくれた弁護士は、そういう警察の手法もさることながら、「その手の逮捕劇に、マスコミは知ってか知らずか、ちっとも疑問を差し挟むようなことを言わないんだよなぁ…」といささか不満げであった。
「だって、そうでしょう…。どんなに職業的直感に優れた警察官だって、繁華街の中を歩く特定の人物のポケットに覚せい剤が入っていると見込みをつけて、その人物を取り囲んで、2時間近く粘るなんてことは不自然だと思いませんか――。『これは裏に何かある』と思うのがふつうではないでしょうか。特に、報道に携わる者は、そういう一般の人が見落としがちなところに切り込んでいくのが仕事でしょう?」
たしかに、今回の高相被告の逮捕劇も、どうして渋谷の繁華街で大勢の人が行きかう中で、警察官3人は的確に高相被告に職務質問をすることが出来たのか――、考えてみると不思議である。
そのことをその弁護士に尋ねてみると、「私がこれまで体験して来たことと、高相被告との逮捕劇が同じ性質のものか、すぐには断言できません、しかし、今回の一連の報道を見ていると、肝心の部分についての考察が、どの新聞やテレビ局もなさ過ぎます。そういう報道のありかたで、本当に報道の使命が果たせるのか、疑問です」との答えが返って来た。(中略)
示唆に富む話をしてくれたのは、都内に事務所を構える、清水勉弁護士だ。清水弁護士は、岩手県警がある男性を「被疑者」とせずに「犯人」として指名手配のポスターに記載した「17歳少女殺人事件」(2008年7月)や、群馬県警の現職警部補への不当・でっちあげ逮捕(2004年2月)、高知県警の“人身御供(ひとみごくう)”懲戒免職事件(2006年7月)、パトカー暴走人身事故事件(2007年12月)、任意捜査指紋・顔写真強制事件(2009年9月)などで、警察権力のあり方に警鐘を鳴らす人物として知られている。事務所で、具体的エピソードを交えて、報道のあるべき姿について話を聞いた。
〔記者〕酒井法子被告に関連した、覚せい剤の〈やらせ捜査〉のお話、あれは、まさに「目からウロコ」という印象でした。
〔清水〕職務質問で覚せい剤所持が発覚することが、絶対に無いとは言いませんが、確率的にほとんどゼロです。警察官が歩いている対象地域で動き回っている人の数と、歩き回る警察官の人数の差を想像してみてください。渋谷駅周辺のような繁華街では、膨大な数の人間が人波となって流れていくわけです。その流れに対して、わずか数人の警察官らが、どんなに目を凝らしたところで覚せい剤を隠し持った人間を黙視だけで探し出せるでしょうか、自分が警察官になったつもりで考えて欲しい。無理でしょう。
〔記者〕〈やらせ捜査〉が生まれてくる土壌として、原田宏二氏(元北海道警釧路方面本部長)は「交通違反の摘発件数、少年補導件数、泥棒の検挙件数、暴力団員の検挙数、などなど警察のありとあらゆるところに『努力目標』という名前のノルマが存在する。」と指摘し、次のように書いています。
「ノルマ主義、これは『ごまかし』の始まりである。これは間違いなく警察官としての自信も誇りも失わせていく。現場で粘り強く地道に仕事をしようとする警察官は、報われることはない。現場で『ごまかし仕事』をうまくこなす警察官ほど幹部に昇任していく。そして現場で『ごまかし仕事』が当たり前のように横行することになる。」 (『警察VS警察官』P20~21)
〔清水〕警察官のそうした実態をわかっていながら、報道機関がそれを世の中に知らせないのは、《記者クラブ制度》が報道の基盤になっているからです。新聞社・テレビ局など記者クラブ加盟社は日々、役所から情報をもらってそれを記事にして報道しています。警察もその1つです。取材する側とされる側が毎日顔を合わせていると、そこには自然と“あうん”の呼吸が生まれます。「これは書くな」と言われなくても書かない信頼関係、もたれ合い関係です。警察の組織的な不正を記事にしようとする記者が現れないのはそのためです。あまりの酷さに記事を書いても、編集デスクが記事にストップをかけます。警察から出入り禁止にされ、情報がもらえなくなると困るからです。
〔記者〕以前、大手新聞社の記者に警察の〈裏金〉について、どうして追及しないのかを尋ねたところ、「警察は水源を持っている大地主、メディアは小作農だ」と比喩的に、その力関係を説明してくれました。つまり、大地主に水を止められたら、小作農(メディア)は何も作物(記事)が作れない、「商売あがったりだ」ということらしいです。
〔清水〕まぁ、そういう比喩も当たっていないこともないでしょう…。また現場の一記者が、どんなに頑張っても、できることの限界はあります。ただ、そういう現場記者の嘆きもわかるのですが、制度そのものの廃止論争以前に、現場の記者一人ひとりが、ちょっとしたことに気を配れば、報道はもっと正確になり、結果として、私たちの《知る権利》は、よりよく保障されるようになるのではないかと思います。
ひとつ具体的な話をします。それは、現在、前橋地裁で進められている、現職警察官(当時)をめぐる、不当逮捕・冤罪事件についてです。この事件を、メディアがどう書いたか――、たいへんわかりやすい話です。
〔記者〕この事件は現在も進行中とのことで、たいへん興味深いです。
〔清水〕2004年2月、群馬県警本部に配属されている警察官ら10名余が、道路運送車両法違反の疑いで、ある現職警察官(警部補)が借りていた乗用車の差押(さしおさえ)に来ました。本来なら、地元の高崎署が管轄警察署として処理すべき事件です。それを、管轄警察署を無視して県警本部だけで対応するというのは極めて異常です――、ここにも、この事件を解く鍵は隠されていますが、今はおきます。
新聞各紙は、「車から偽造プレートを外し警察官に体当たりした。」(上毛新聞)、「差し押さえに来た警視に体当たりするなどして暴れ」(讀賣新聞)、「車のナンバーを調べようとしたところ、警視に体当たりするなどして捜査を妨害した」(毎日新聞)と県警の言い分を報道していますが、逮捕された警部補の言い分は、どの新聞にも書かれていません。
考えてもみて下さい。
例えば、警察が、「どこどこの○○を窃盗の容疑で逮捕した」と発表します。もちろん「○○」と、実名が出ます。例えば、「新宿区在住の○○太郎(28)を・・・窃盗容疑で逮捕した」と発表するわけです。そうした事実関係、人名や逮捕容疑も重要ですが、そのことを本人が「認めている」のか、「認めていない」のか、これを書くことは報道に従事する人たちにとっては、基本中の基本のはずですし、逮捕された人の、社会に対するわずかなメッセージとしても重要です。ですから、通常、逮捕された人の言い分も記事に書かれます。
ところが、群馬県警のケースでは、新聞で何度も「体当たりした」ことが報道されているのに、本人がどのように言っているのかを記事にしたものは1つもありませんでした。
〔記者〕そもそも、いつから「体当たり」が出て来たのでしょうか。
〔清水〕逮捕された時は、乗用車の前部に取り付けた紙製のナンバーを引き剥(は)がしたことが「公務執行妨害」だと言われました。警部補が直前に見せられた差押許可状には、罪名が「道路運送車両法違反」と書かれているだけで具体的な内容がわかりませんでした。差押対象物は「乗用車」とだけが書かれていました。それで自分が取り付けた物を自分で引き剥がすことは問題ないだろうと思い、引き剥がしたら、警察官らが数人駆け寄ってきて警部補を組み伏せ、しばらくしてから、現場責任者の警視が本部と相談の上、「破ったんだから、公妨(こうぼう)でいい」「現行犯逮捕」と言って、警部補を逮捕したのです。ビデオ映像をみると、周りの警察官らも警視の「現行犯逮捕」に呆然としているようでした。この時点では「体当たり」の話は出て来ません。
「体当たり」の話が出て来るのは、警部補が逮捕された日の午後の取調べからです。警部補は身に覚えのないことだったので、はっきり否認しました。以後、彼は、一貫して否認しています。
現行犯逮捕された警部補は、現職警察官の事件ということで報道されることは予想していました。その内容は、自分が紙のナンバープレートを破いたことが「公務執行妨害」になるというものだと考えていました。まさか、マスコミ報道で「警察官に体当たり」(上毛新聞)などとなっているとは夢にも思っていなかったのです。
〔記者〕警部補はいつ「体当たり」報道されていることを知ったのでしょうか。
〔清水〕逮捕後しばらくして、拘置所に面会に来た父親と兄から報道内容を聞かされて、初めて知ったのです。警部補が「体当たり」を否認していることが記事に書いてなかったので、父親も兄も警部補が「体当たり」したと思い込んでいたということでした。「自分が警視に体当たりして逮捕された、と報道されている」――つまり自分の経験したこととは全く違うことが、まことしやかにメディアによって報道されていることを、彼はこのとき初めて知るのです。
が、時すでに遅しです。世の中の人はだれもが、彼のことを「警察官に体当たりして逮捕されたとんでもない警察官だ」と思い込んでしまっています。どうしてそういうことが起こったのかと言えば、《記者クラブ》の記者たちが、警察発表をそのまま記事にして、警部補の言い分をどこも掲載しなかったからです。
ふつうは、「警察によれば…○○警部補が、訪れた群馬県警の関係者に体当たりをしたとして逮捕された」のあと、「本人は逮捕容疑を認めている」とか「本人は容疑を否認している」と書くでしょう。そんなことは、報道として当然です。それが今回の事件の記事には一切ないのです。
〔記者〕記事の構成上、「容疑を認めているか/否認しているのか」は、あるのと無いのとではまったく印象が違いますね。
〔清水〕実は、この事件は深いところに〈根〉を持っています。発端は1996年11月に、その警部補が自らの正義感から、捜査費の裏金作りを経理担当職員や上司に抗議したことです。翌年3月、彼はそれまでの出世コースから露骨に外され、田舎の交番に左遷されます。警察組織内部では、交番勤務の警察官には捜査をさせないことになっています。それまで捜査の一線にいた警察官を捜査のできない交番勤務に回すということは、「警察官を辞めろ」という意味なのです。しかし、交番勤務であっても警察官の仕事に誇りを持っている警部補は、警察官を辞めませんでした。
全国的に見ると、2003年7月、高知県警本部捜査第一課の捜査費裏金作り一覧表を地元紙が入手し、紙面を使って執拗な追及を始めました。警察庁は全国への飛び火を懸念して、警視庁、道府県警察本部に要注意人物のチェックを指示します。群馬県警の警部補は、かつて裏金作りを批判し、その後も“反省”の態度がない要注意警察官でした。
その年の11月、テレビ朝日系列の番組『ザ・スクープ』が全国の警察の裏金づくりを特集し、警部補はこの特集番組の第2弾に協力しました。警部補の日常生活を監視していた監察(群馬県警)は、警部補がテレビ番組の取材に応じていることに気づいたはずです。そうなると、大急ぎで、警部補を黙らせるか、社会的信用を失墜させるか、とにかく手を打つ必要があります。警部補は監察による日常生活の監視を免れるために、紙ナンバーによるNシステム逃れをしていました。それを注意し止めさせるという対応をしないで、県警本部だけで「事件」として処理したのは、高崎警察署の警察官に取調べをさせると、なぜ警部補が紙ナンバーをつけるようになったかを高崎署の警察官たちも知ることになり、県警本部の裏金作りまで知られることになるという危険があったからです。それで管轄の高崎署を一切関わらせなかったのです。
いまの新聞やテレビに、そこまで報道しろとは要求しません。警察と《記者クラブ》の関係からして、それは無理です。
しかし、逮捕された警部補の言い分を書くだけなら、記事の基本ですから、できるはずです。「現職の警察官が、県警関係者に体当たりしたとして、公務執行妨害で逮捕された」とだけ書くのと、「現職の警察官が、県警関係者に体当たりしたとして、公務執行妨害で逮捕された。本人は、逮捕事実を一貫して否認している。」と【わずか20字】つけ加えるのとでは、読み手の受ける印象は全く違います。警察の記者会見の場でも、「本人は認めているのですか?」ぐらいの質問はできるはずですし、警察や検察に対して取材を重ねていても、現場にいた目撃者に当時の状況を取材しても、「体当たり」報道が一方的だということはすぐにわかったはずです。
今回の、高相祐一被告の覚せい剤事件に関する報道も、私から見れば、「ああ、これもか」という感じです。《記者クラブ》での警察発表があった時に、「夜10時半の渋谷での雑踏で、〈高相被告が覚せい剤を所持している〉との確信をどうして警察官は持ったのか」と、なぜ記者たちは聞かないのでしょうか。
5年前の全国紙を当たってみた。すると、確かに、その“事件”について報道がされている。
「調べによると、○○○容疑者は16日午前8時ごろ、自分の乗用車に偽造ナンバープレートを付けているとして道路運送車両法の疑いで自宅から任意同行しようとした県警交通指導課員に体当たりした疑い。○○○容疑者は取り乱しており、詳しい事情は聴けていないという。」(2004.2.17 朝日新聞 第31面)
この記事について、清水弁護士に尋ねてみた。
「警部補は取り乱しておらず、それどころか、しっかり否認していました。そのことは供述調書にはっきり出ています。『容疑者は取り乱しており、詳しい事情は聴けていない』は完全なウソです。朝日新聞が勝手にウソを書く理由はありませんから、これは群馬県警のウソです。取り乱しているという言葉を信じるにしても、翌日、翌々日に改めて警部補の言い分を確認してもよかったはずです。現職の警察官が公務中の警察官に体当たりして現行犯逮捕されるという事実は、それが事実なら、懲戒免職にならなくても、警察官として辞職すべきです。しかし、もしねつ造なら、ねつ造した者こそ懲戒免職処分を受けるべきであるし、そうならないなら辞職すべきです。そういう大事件なのに、どの新聞社も警察の発表を口を開けて待っているだけ。これを《記者クラブ》の悪弊と言わずして、なんと言えばいいのでしょう」
現在、〈冤罪〉に対する世論の高まりが見られる。しかし、本当に伝えるべきことを、メディアが伝えているのか、清水弁護士の言うように、【わずか20字】を加えるか/加えないかで、記事の生き死にが決まるだろうし、書かれるべき【20字】の有る/無しで、書かれた人間の生活も大きく左右されてしまうことは明らかだ。
清水弁護士から話を聞いた直後に、新聞に興味深い記事が載った。それは「京大生が覚せい剤所持で逮捕」というニュースである。改めて、清水弁護士に、それらの記事を見せると、「これですよ」と言って、にやりとした。朝日、読売、毎日、産経といった大手メディアの伝えた「京大生、覚せい剤で逮捕」の報道を例に、次回改めて「メディアの使命」について考える。 【三上英次2009/10/26】
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【ひらく会情報部】