昭和40年代後半のある日のこと。親父とかみさんが我が家の橋に立っていると、前屈みでヒョコヒョコと通りがかった小柄な紳士に道を尋ねられた。
心もとない記憶を頼りに、恩師の住まい或いはお墓を探しておられる様子。お話を伺って直ぐに岡山第一中学校(現岡山朝日高校)で数学の教鞭をとり、最後は同教頭を務められた中村伊勢次氏(昭和23年没、行年65歳)とわかった。そこで当時既に空き家となっていたお住まいと中村氏の眠るお墓をご案内した。
これが縁で、道案内のお礼に代えて後日、一枚の色紙が届いた。色紙には優しさ溢れる達筆で二文字「清福」とだけ記されていた。書の主こそは岡山県知事に就任してほどない長野士郎氏であった。
岡山県知事、全国知事会長などを務めた長野士郎氏が5日午前9時半、膵臓がんのため岡山市伊福町、岡山済生会総合病院で死去された。89歳。
氏の6期24年にわたる業績など詳報については、明日の新聞報道に譲る。
石井正弘岡山県知事は『まさに「巨星落つ」の感を禁じ得ません。「人間尊重、福祉優先」の理念と高い見識のもとに、県発展の基礎となる各種事業を実施された。「地方自治の権威」であり、先見性と決断力、行動力は全国的にも不世出の指導者でした。』と称える。
余談ながら、後年になってこの色紙がもとで、親父の従姉妹の旦那が長野氏の従兄弟にあたることが判明した。世間とは狭いもので、何処かで繋がっているという思いを強くしたものだ。
また私は、中村伊勢次氏とは面識がないが、近所の古老の話では「中村伊勢次氏は教育に熱心で、今で言う塾の様なものを開いておられた。当時、一中の秀才の生徒の高等学校、大学を目差しての補習授業をされていた。夕方になると生徒の自転車が列をなしていた。趣味は投網で玄人はだしだった。」と振り返る。
心もとない記憶を頼りに、恩師の住まい或いはお墓を探しておられる様子。お話を伺って直ぐに岡山第一中学校(現岡山朝日高校)で数学の教鞭をとり、最後は同教頭を務められた中村伊勢次氏(昭和23年没、行年65歳)とわかった。そこで当時既に空き家となっていたお住まいと中村氏の眠るお墓をご案内した。
これが縁で、道案内のお礼に代えて後日、一枚の色紙が届いた。色紙には優しさ溢れる達筆で二文字「清福」とだけ記されていた。書の主こそは岡山県知事に就任してほどない長野士郎氏であった。
岡山県知事、全国知事会長などを務めた長野士郎氏が5日午前9時半、膵臓がんのため岡山市伊福町、岡山済生会総合病院で死去された。89歳。
氏の6期24年にわたる業績など詳報については、明日の新聞報道に譲る。
石井正弘岡山県知事は『まさに「巨星落つ」の感を禁じ得ません。「人間尊重、福祉優先」の理念と高い見識のもとに、県発展の基礎となる各種事業を実施された。「地方自治の権威」であり、先見性と決断力、行動力は全国的にも不世出の指導者でした。』と称える。
余談ながら、後年になってこの色紙がもとで、親父の従姉妹の旦那が長野氏の従兄弟にあたることが判明した。世間とは狭いもので、何処かで繋がっているという思いを強くしたものだ。
また私は、中村伊勢次氏とは面識がないが、近所の古老の話では「中村伊勢次氏は教育に熱心で、今で言う塾の様なものを開いておられた。当時、一中の秀才の生徒の高等学校、大学を目差しての補習授業をされていた。夕方になると生徒の自転車が列をなしていた。趣味は投網で玄人はだしだった。」と振り返る。