てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

伝統のお飾り作り

2006-12-19 11:10:27 | 暮らしと生活
 迎春準備の最後の追い込みに余念が無い“お飾り作り”-。
 当高島地域は、お飾り作りの最大産地で岡山市場の80%余りを占める。農家の人たちが1年ががりで丹精込めて作り上げたお飾りはJA(農協)で集荷され、10トントラック7台分にもなる。

 昭和30年頃から休耕田を利用して生産が増え、現在では高島地域で80軒足らずの生産者がいるが、後継者は次第に減少している。お袋もその一人だったが、アルツハイマーを発病してから4年後の平成6年に断念している。
 お袋はお飾り生産の草分け的存在ではなかったかと思う。私が物心ついた頃には夜なべ仕事で精を出していた。嫁に来てから祖父に習ったものと聞かされている。

 お袋は根っからの働き者だった。親父とペアで同じ会社に20年間勤める傍ら、前後では農業とお飾り作りに勤しんだ。まさに『働くことが生甲斐』、『仕事の虫』を地でいくような勤勉ぶりは並々ならず、自他ともに認めるところだった。
 そんなお袋の作るお飾りは、到底女性とは思えない力強い作品で、沢山の中から一目で分かるほど、目を見張るものだった。
 平成4年4月のお飾り共進会においては、形やワラの色つやなどが審査され見事入賞を果した。氏神様である備前国総社宮に買い上げられ、ご神前で祈願を受けて氏子に届けられるほどになっていた。
 最も脂の乗り切っていたその頃には、明けても暮れてもお飾りオンリーで、家事は一切やらなかった。

 同じように、かみさんも嫁に来てからは、暮れの繁忙期には手伝わされた模様。私はといえば勤めがある上、元来ワラゴミのする“お飾り作り”に反対で見向きもしなかった。
 今となっては、祖父の代からの伝統の灯が、僅か二代目で消えるのは忍びないという思いはある。お袋は、我が家には後継者がいないと察知していたのか、A磐市に住む弟夫婦に後を託して、お飾り作りのノウハウを伝承していた。今ではその叔父夫婦が作るお飾りが総社宮でお召し上げいただいている。

※下の写真は、3年前に叔父の作ったお飾り。そのためワラの色が褪せている。本来「とんど焼」ではやすのだが、お袋の形見代わりに一つだけ残していたもの。
 これに昆布、だいだい、うらじろ、ほんだわら等が付く。

   
   叔父の作になるお飾り
コメント (4)
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