課長の家の下宿人

2013-04-12 09:47:53 | サラリーマン人生
 昨日の記事の冒頭に今迄移り住んだ家の事を書いたけど、 就職して最初の頃は短期間の内に引越しを繰り返しています。 その中での最大の想い出は、立川の貸家を世話してくれた課長の家の下宿人になったこと。 寮生活は3ヶ月で打ち切られ、その後は同期の新入社員3人で今風の言葉で言えば「シェアハウス」生活を始めたのだが、数ヶ月でそれも終わった。 他の2人がそこを出て一人生活を始める事にしたのだ。 その理由は今では正確に思い出せないのだが、2間に台所の付いた貸家での3人共同生活に嫌気が差してきたのか?

 同居人だった他の2人が出て行くと決めると、それは当然僕にも話があったのだが、 その借家を借りる時に、その労をとってくれ、 住んだ後も僕達から家賃を取りまとめて大家さんに届ける、 そんなことまでやってくれていた課長の奥さんにも話は伝わった。 借りていた家の家賃は当時で5千円ほどだったかと思うが、 就職1年めの僕達の月給は1万円弱、 だから独りでその借家に住み続けるのは経済的に困難なのは目に見えていた、 僕は「2人が出て行ったら、これからどうしよう?」そんな事を思い悩みはじめたのですが・・・

 「タナカさん、家に下宿しなさい、独りであそこの家賃払えないでしょうから」課長の奥さんからそんな申し出があったのです。

 課長の家での下宿生活、 それはどんな事になるのか? 
 続く・・・ にして置きます。 
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謄写版の学校へ

2013-01-24 21:18:08 | サラリーマン人生
 入社して最初の頃の仕事は図面のコピーや保管棚からの出し入れの仕事が多かったけれど、 図面のトレースの仕事も与えられるようになって来ました。 それは嬉しいかったのだけれど、 最初に製図したものを依頼された人に渡した時の顔は忘れられません。 だって「お前が担当したのか、 文字が下手で、美しくない図面だ、 こんなの受けとりたく無い!」 言葉では言われなかったけれど、 顔の表情が強烈にそう言ってましたからね。

 たしかに職場の先輩の描く図面の中の文字は読みやすく、美しい。 それに較べたら僕の稚拙な文字の並ぶ図面は醜かったとおもいます。

 そこで 「どうしたら先輩の様な文字が書ける様になれるだろうか?」と聞いてみました。 入社した年の夏に富士登山に僕を連れて行ってくれた先輩は「謄写版の学校に行って、文字の書き方を教わった」 と教えてくれました。

 そうです、当時は”ガリ版”と呼ばれる方法で印刷物を作るのが小規模な印刷物、例えば学校の先生が作る試験問題やお知らせなどを発行する時の主流であったのです。

 ガリ版印刷では薄い蝋引きされた半透明な用紙を細かい目をした平らなヤスリの上に置き、 「鉄筆(てっぴつ)」と呼ぶボールペンの先の様な先の丸まった先端が鉄の筆記具を使って蝋引きの版下用紙に文字を書くのです。 すると鉄筆が走った線に沿って細かな孔の連なりが出来るのです。 その版下は細かな目の布で作られた印刷器具に印刷用のインクの粘着力で貼り付けます。

 その版下を張り付けた印刷器具の下に印刷用紙を置き、 インクを載せたローラーを転がすと版下の細かな孔を通して用紙にインクが乗り、 印刷物が出来上がるって訳です。

 ところで、ロウ引きされた版下用紙には原稿用紙と同じ様な体裁で、もっと小さな四角い枠が印刷されていて、 その中にバランスよく活字のような文字を書き込む。 そんな能力を身につけさせてくれる学校が、当時はあったのです。 僕は会社が終わると先輩の教えてくれた御茶ノ水駅近くにあった謄写版の学校へ半年ほど通いました。

 その結果、 Top写真の様な文字を書く僕が出来あがりました。 ちなみに、この写真は所属した山岳会の会報をガリ版で発行した時の僕がガリ切りを担当したページの一部です。
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タオルが製図に必須だった頃

2012-12-18 22:18:50 | サラリーマン人生
 新入社員として配属された設計部署で先輩社員の使うテーブルは製図板が少し傾斜して置かれた物でした。 僕にも最初からそんな斜めになった机が与えられたかハッキリ覚えていないのだが、 製図用具はまだT定規だったことは覚えている。 物を製作するために必要な設計図面の中では平行な線を沢山描く必要があって、それにT定規は使われていました。 原図となる用紙を製図板の上にテープで固定し、製図板の左側面にT定規をあてがって、 主として水平方向の線はそれで描き、 垂直方向の線はT定規の水平部分に三角定規を載せて滑らせて、必要な箇所に垂直線を描くのです。 

 筆記具ですが、黒いインクを使って烏口で線を引き、Gペンと呼んだタイプのペン先で文字を書いてましたが、 急激に鉛筆、特にシャープペンシルに移行しつつありました。 0.5mm、 0.3mmそんな細線がいくらでも引ける便利な道具としてね。 移行していった物の中で大きく目立った物は 平行線を描くための道具、 T定規からドラフターへの流れでした。



      写真は武藤工業の「ドラフター」です。
 

 更に意外な物が製図作業に必須な時代がありました。 タオルです。 「えっ、何に使うの?」そう思われるかも知れませんね。 今時の会社では暑い時期になっても汗なんかかきません。空調が効きすぎて、女性社員など冷え過ぎないようにと膝掛けなどを使って保温に務める事があるほどですから。 だけど日本の高度成長期前、僕が新入社員となって暫く、夏の暑さを凌ぐための室内の設備と言えば扇風機が主流であったりしたのです。 暑けりゃ身体は汗を出して体温調整しますけど、 腕から出た汗、それをトレーシングペーパーに吸わせたら、用紙に皺がよって、鮮明な複写が出来なくなるのです。 それを避けるために腕の下にタオルをあてがって、腕からの汗が紙に染み込まないように注意しながら図面を描いていたのです。

 Topの写真にはT定規、三角定規、烏口、ステンレス製の字消板、そんな懐かしい品々が並んでいます。(Googleの画像から拾って来ました)
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3ケ月だけの寮住まい

2012-12-11 22:24:33 | サラリーマン人生
 新入社員としてやって来た東京、そこでの住まいは会社が用意した木造2階建ての借り上げ寮でした。 所在地は会社の在った高田馬場駅から直通電車のある西武新宿線の小平駅近く。 もっと正確な最寄り駅を言うと小平から分岐した1駅先の萩山だったか。 まあどっちの駅からでも歩けました。

 南は九州から北は北海道の高校を卒業した連中だけが入寮して、一部屋に2人の寮生活が始まった。 僕の相棒は青森県・浅虫出身の奴だった。 それまでだって、世の中には方言と言うものがあるくらいの意識はありましたけど、 何か話しかけられても意味が即座に判りかねる話し言葉に出くわしたのは、この寮での生活が初めてでした。

 ところでタイトルに書いたように”3ケ月だけの寮生活”となったのは何も僕達新入社員に経済力がついて、アパートを借りられる様になったからでは有りません。 会社が急に寮を閉鎖すると言い出したのです。 その理由ですが「寮にいる新入社員が”民青”と呼ばれた左翼系組織へのオルグのターゲットになったため」後に随分と世話になった上司から、そんな話を聞きました。

 新入社員時代となった昭和30年代後半、世の中の会社の労働組合は春の賃金交渉、夏・冬のボーナス時期、会社との交渉が始まると赤旗立ててストライキを決行し、集会では歌を歌い、 何はともあれ元気がありました。 その元気さは夏の時期に千葉県富津の辺りの民家を借りて「海の家」を開設する様な形にも現れたりしてました。 会社はそんな海の家を利用するのも嫌っていましたがね。
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リコピーの時代

2012-12-03 20:59:11 | サラリーマン人生
 「設計部署で仕事をしてます」そう言われたらどんなイメージを持つものだろうか? 幸か不幸か僕の場合、サラリーマン人生の大半を設計部署で過ごしたことになるんですが、 新入社員として入社した東亜電波工業で所属した部署nの名前は「設計課」、全社の製造図面の保管管理、 そして通信用測定器のケースや操作パネルの設計を担当する部署だった。 5年後に転職して働くことになった会社での分類の仕方で言えば”C系設計”を担当する部署でした。 他に電気回路の設計や、ペンレコーダーの様な可動部のあるメカ的な部分を設計を担当する部署が別にありました。

 まあ工業高校を卒業したての18歳のガキが最初から設計なんて出来るはずも無く。 最初の頃は図面管理の仕事が大半でした。 製品の生産計画が発動されると、それを製作するのに必要な図面一式分の原図を収納棚からピックアップして、コピーの外注業者に依頼してコピーしてもらう。 受け取ったコピー図面はA4サイズに折りたたんで、日付の入った赤いインクの出図印を押す。  またコピーなどのために貸し出した原図は時に傷んで戻って来るのだが、 破れた部分をあればテープで補修し、 決められた区分の引き出しに原図を再度収納する。 そんな補助的な仕事からサラリーマン人生の仕事は始まりました。

 今はコピー機。と言えばゼロックスに代表されるレーザープリンターが主流だろうけれど、 当時のコピー機はリコー製品の ”リコピー”が幅を効かせていた。 光の透過性の良い半透明な用紙(トレーシングペーパー)に書かれた設計図(原図)と淡黄色の感光剤を塗ったコピー用紙を重ねてコピー機の中に挿入すると... 感光剤を塗ったコピー用紙は定着液の中を潜り、青色した線画や文字の図面が出来上がる。 正常に動作していれば、原図とコピー用紙は分離されて排出される。 しかし機械の銚子が良くない時には原図とコピー用紙が分離されずに原図も定着液の中を通過して、定着液を被って原図がしわくちゃになったり、光の透過性が悪くなったり、 困ったコピー機でもあったのです。 
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最初の生活費

2012-11-27 21:01:37 | サラリーマン人生
 4月の初めに入社して、その月末に給料が支給されるまでの生活費として5千円から1万円の間の金額を母親から渡された。 当時は俺の初任給を上回る金額のその金を母親がどうやって工面したか気にもしなかったが、 今にして思えば、親戚の人達に助けて貰って当面の1ヶ月間の生活費として用意してくれたのだと思う。

 そして3ヶ月ほどの試用期間も過ぎて実家に帰った時のこと、母親に「今度お盆休みにでも帰って来る時に、東京のデパートの名前が入った紙に包まれたお菓子を幾つか買って来ておくれ」と言われた事があった。 東京に働きに行くにあたって世話になった人に御礼をしたいから」 そんな理由を話す母親に「嫌だ、買ってこないよ!」と断ってしまった記憶がある。  今にして思えば。 その事で母親は「親戚の人達に随分と肩身が狭い思いをしたんだろうな・・・」と思う。 あれから50年が過ぎた今も、自分が嫌になる想い出としていつまでも残っている。
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目標に向かって消えた鈴田君

2012-11-19 10:34:39 | サラリーマン人生
 学校を卒業して社会人になる、その時僕には具体的な将来の夢なんて無かった。 いやそれどころか、高校の卒業間近にした時期、当時国語を担当していた教頭先生の雑談風な話の中で「君たちは社会の中堅となる、間違っても社長になろうなんて思わない方が良い!」 そんな「少年よ大志を抱け!」とは反対の言葉を贈られたものだ。 切れ長な細い眼、そして鼻の下にはチャップリン風のちょぼ髭を生やし、剣道の顧問をしていたその教頭先生の話は単に聞き流していた。(それなのに良く覚えているな > 自分)

 そして迎えた新入社員生活、 そこは同期入社した人達との付き合い開始の場ともなる。 そんな中、佐賀県の高校を出た鈴田君は「俺は2年間働いたらヨーロッパに行く」、「会社は辞める」と話していた。 それを聞いて随分ハッキリした目標というか意思を持った奴だなと思った。 引き続いて、「ヨーロッパへはウラジオストックからシベリア鉄道に乗って行く」そんな具体的な手段にまで言及するのだ。

 50年近く年月が過ぎても彼の出身地と名前を覚えていて、こんな風に書いたりするのは、それまで身近にいた友達と言えば「今度の週末、映画を見に行く」程度の言ってみれば一週間先の予定程度のものだった。 それに対して、2年も先の将来に向かって金を貯めて海外旅行に出る、こんな目標を持つ人間に出会ったのは彼が最初の人だったので強烈な印象となって50年後の今も記憶に刻み込まれた。

 ハッキリ2年後だったか覚えていないが鈴田くんは確かに会社から消えた。 当然ヨーロッパに渡ったのだと思うが、その時以降、同期入社した彼との接触は無くなり、今に至っている。 どうしているのかな?

その後、どんな人生を送っているのかな・・・
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就職試験は面接だけ

2012-11-11 12:08:11 | サラリーマン人生
 サラリーマン人生の出発点は就職試験がありますけれど、 僕が高校を卒業した昭和37年と言えば集団就職真っ盛りの時期でした。 日本の景気は上向き、社員を募集する会社の担当者は全国の学校に出向きその場で面接を行い採用を決めて行く。 そんな時代でした。

 僕が最初に就職面接を受けたのは「富士通」さんでした。 同級生3人が学校にやって来たリクルーターの面接を受けましたが、他の2名は採用され、僕は何故か不採用。 今にして思えば「東京の工場は嫌だ、(栃木だったか茨木だったか)静かな地方の工場が良い」そんな希望を述べる僕にリクルーターは採用を躊躇ったかもしれないです。

 最初の就職面接に落ちた後、そんなに悄気た意識は無いのだけれど、家では母親が心配してましたから、僕の表情は落ち込んでいたのかな?

 そんなこんなの後、 2度目に就職試験(と言っても面接だけ)を受けたのが高田馬場駅近くに本社工場のあった東亜電波と言う訳です。 会社見学と面接には学校の専門教科を担当する先生が付き添ってくれました。 木造1・2階建の建物の会社でしたけれど、作っている製品(通信用測定器)の顔ぶれを見て即座に気に入りました。(Topの写真は歪率計等が写っていますが、東亜電波の製品ではありません、まあこんな感じの製品をこんな感じの作業環境で製造・調整していた、その雰囲気を味わってもらおうと、WEB上の画像を使わせてもらいました)


 僕が気に入っても相手が気に入ってくれなければ就職出来ませんけれど、 その日に人事担当課長の面接を受けて入社は即決しました。 後日、北海道や青森そして九州の学校にまで技術系の課長や係長クラスの社員がリクルートに廻り、その場で就職の面接・試験がなされたと同期入社した仲間から話を聞きました。

 現在の就職活動は50社~100社にエントリーの履歴書を送ってもなかなか内定が貰えない。 ”WEBでエントリーした後で面接の場に呼ばれるだけでもラッキー” そんな状況だそうですが、それとは比べ物にならない簡単な就職先決定でした。 
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サラリーマン人生 スタート

2012-11-04 09:58:44 | サラリーマン人生
 新しいカテゴリーを設けてみた。 題して「サラリーマン人生」、日経新聞の最終ページに置かれている「私の履歴書」、それを真似る積もりはないし、社会的に成功した知人友人がいる訳じゃない僕の人生なんかをテーマに記事をまとめても、どんな事になるか判らない。 新聞のそれの様に1ヶ月連載で完結、そんな風にもなりません。だから新しいカテゴリーを設けるよりも既に作ってある「昔話」に入れればそれで良しの気持ちも無いではなかったけれど... 気の向いた時、たまにサラリーマン人生の中での出来事を拾い出して書いてみようと思っています。 

 ところでサラリーマンを辞める時には”在職中に得た情報を流出させない事、競合他社には定められた期間再就職しないこと” そんなお決まりの内容が印刷された誓約書に署名捺印して提出しました。 あれから2年半以上も時は過ぎた。 気楽に小さな出来事を拾い上げて書き綴ってみるつもりです。


 さて皆さんは山の手線・高田馬場駅のホームの新宿寄りにある小さな改札口を利用した事は有るだろうか? 早稲田通りに面した大きな改札口は知っていても、新宿寄りに改札口があるなんて知らない人が多いでしょうね。

 僕のサラリーマン人生はそのガード下の小さな改札口を出て、山の手線の内側の坂道を登って直ぐ近く、東亜電波工業株式会社から始まったのです。 入社した年は昭和37年、その2年後には東京オリンピックがあって自衛隊の飛行機が青空に描く五色の煙のオリンピックマークを道路に飛び出して当時入手したハーフサイズカメラのオリンパス・ペンで撮影したものでした。
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