英語が小学生から学べるようになり プログラミングが楽しめるようになるそうですね。
でも 60歳になったおばあが思うに 本当は 学校で覚えたことだけではなく 日々の営みの中に生きていた情報も必要でとても役立つのです。
それは 重要な公園の管理を任されていても 松と梅の剪定の区別ができないようになっている今
着物を着ても 洋服と区別して所作をかえて 着こなしができないようになっている今
この国の形は のこるのだろうか。大丈夫なのだろうかということです。
日々の営みで感じたり学んだりする機会が 学校の勉学とやらで四苦八苦するうちに失われつづけ 結果 国の個性も失われ継承できないようになっていはしなでしょうか。
誰もができるようになってほしいことと 誰もが理解していてほしいこと 誰かができるようになってほしいことは 学校教育で一律に学ぶべきなの。
伝える場も 伝え方も 学ぶ場も 学ぶ方法も それぞれ向き不向きあり ちがっていていいのではないでしょうか。
時間も場所も 国全体としては 日本人の営みを失わない工夫が必要ではないかと 思っているのです。
学ぶ場がいろいろあって いつ学び始めてもよいのに 誰もが同じように学び 並べぬものは行き場がない そんな学校教育のままでいいのでしょうか。
ご飯をつくれること 洋裁や編み物ができること
釣りができること 鍬が扱えること
昔は誰もが出会い 何かしらできて当然だった ささいな日常です。
日々の日常で できるようになることが あまりに
おろそかになりすぎなのでは ないかと思うんです。
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