児童に侮辱的なあだ名、ほうきはさみ正座 名古屋の教員(朝日新聞) - goo ニュース
侮辱的とは具体的にはどういうことを指すのだろう。
オズマの少年時代は苗字からきた,それはもう腹の立つものがあった。あれは侮辱的だった。いまでも腹が立つ。
そして小学4年のとき,あまりにも先生に対し偉そうな態度をとる生意気な少年だったので「社長」とつけられた。作文で「僕のあだ名は社長」と書いた記憶もある
。
きわめつけは小学6年。顔が四角いからと,「ペヤングソースやきそば」のパッケージに似ているからと,「ペヤン」などと呼ばれた。これまた侮辱的であった。
しかし,「ペヤン,ペヤン」と呼ばれているうちに友人が増えていた
中学に入ったら同級生がみな「ペヤン」と呼んできた。これで実に4年間「ペヤン」だった。
高校生は暗黒の時代だったのでとくになし
。
大学時代は,「オトゲさん」と言われたことが多かった。いや,他にもあったか。ありすぎたな。部活やってたから。
結局,どれもこれも,最初は侮辱的であった。容姿などを単純にからかうものだったりするからだ。だが,いまハンドルネームを「オズマ」として自分で名乗って,たまに水郷で「オズマさんですか」などと話しかけられたとき,うれしくなる。それは自分で決めた「あだ名」だからだ。
要するに,自分で決めたかそうでないか。そこが侮辱的かどうかの分かれ道,というのが自分の経験論。
ほうきはさみ正座はなかったが,ビンタは当たり前,出欠簿で叩かれたり,平手打ちは日常茶飯事だった。僕はひねくれ者なので「へへえ,すみませんでした
」などといってその場を逃れていたが,要するに幼かったのでまたやってしまい,最後には,めったに怒られなかった父に猛烈に蹴られた
。あのとき,改心しようと思ったものだ
。
つまりは,本当に反省するとは,そんなに簡単なことではないということ。現に,大人の再犯率はとくに性犯罪で高い。謝っておいて,またしでかすわけである。つまりは改心していないのだ。
そんな,大人でさえも難しい「改心」の問題を,すぐに「体罰問題」だけで片付けるのはどうかと思う。
教育基本法の正当性も議論すべきだろう,この際。
教育問題は語ることさえタブーとされているが,これを何とかしないと「美しい日本」(どっかのオボッチャマ総理が昔言っていた気がする)なんて作ることはできまい
。