「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大分県姫島村 「 姫島灯台 」

2014-04-13 05:18:41 | 大分の灯台


















灯台に向かって緩やかな坂を上って行く







坂の上り口右側の水路に石組みされたアーチがある







坂の上り口左側に 「 姫島燈室用地 」 と刻まれた路標がある







灯台の手前に 「 姫島灯台の説明版 」 が設置されている







説明版を抜けると門がある







門を内側から見るとこのようになっている







手前の吏員退息所







吏員退息所







正面に姫島灯台を望む







灯台に不似合いな 「 真新しいプレート 」






吏員退息所に展示されている旧ライト






まるで城跡のように灯台を囲む石垣






2段に組まれた石積み






灯台の下に掲げられた説明版






灯台下から見た吏員退息所


















20.0海里を照らす4等級レンズ






姫島灯台がある桂ヶ鼻付近











灯台表番号 / 5252・M4968
ふりがな / ひめしまとうだい
標識名称 / 姫島灯台
所在地 / 大分県国東郡姫島村
北緯 / 33-43-50
東経 / 131-42-00
塗色 / 白色
灯質 / 群閃白光 毎30秒に4閃光
光度 / 実効光度240000カンデラ
光達距離 / 20.0海里
地上~頂部の高さ / 12.25m
平均水面上~灯火の高さ / 57.3m 
地上~灯火の高さ / 9.4m
業務開始年月日 / 明治37年3月20日
現用灯器 / メタハラ点灯装置
電球種別 / MT250


姫島灯台(ひめしまとうだい)は、
大分県国東半島沖の姫島東端の柱ケ岳に立つ灯台である。
保存灯台(Bランク)に指定されている。


山口県徳山市で産出した花崗岩を用いた石造の灯台である。
灯塔は3階建てで、1階が燃料室、2階が当直室、3階が灯室として用いられた。
灯台の脇にはかつての吏員退息所がある。
現在、灯台の周囲は公園として整備され、桜の名所となっている。
旧吏員退息所は休憩所として利用されている。


瀬戸内海西部で、周防灘と伊予灘との境界に位置する姫島は
古くから海上交通の要衝であった。
1605年(慶長10年)に小倉藩初代藩主の細川忠興が、
姫島西南端で篝火を焚いて航行する船に便宜を与え、
これに倣って諸国で烽火が設けられるようになったとの記録が残っており、
姫島を日本における航路標識の発祥の地とする説もある。

1902年(明治35年)、姫島に航路標識を設置することが決定され、
総工費42,360円が費やされ、1904年(明治37年)3月20日に姫島灯台が竣工、初点灯した。

初点灯から1970年(昭和45年)3月までは灯台守が置かれたが、
同年4月に自動化され無人となった。
以降、佐賀関航路標識事務所が管理してきたが、統合により、
1993年(平成5年)4月からは大分航路標識事務所が、
2004年(平成16年)4月からは大分海上保安部が管理している。


姫島灯台へのアクセス
姫島港から右に海岸線を走る 「 ひめしまブルーライン 」 を道なりに進み、
突き当りが二又に分かれたところを右に行くと、
上り坂になっており、駐車場の上に灯台が見える。


沖縄県南城市 「 安次富 ( あしとみ ) ・ 大川グスク 」

2014-04-13 05:17:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



安次富グスクがある森







父・尚泰久王と隣同士にある安次富金橋の按司墓







仲栄真にある三津葉多武喜の按司墓







津覇整備工場の裏にある大川グスク





安次冨・大川の両グスクは、当山集落の東側の大岩の上に築かれたのが安次富グスクで、
道をはさんでその反対側に築かれているのが大川グスクである。
ともに城壁は無く、一時の居住地であったとされる。

安次富グスクは、尚泰久王の長男・安次富金橋は父との折り合いが悪く、
そのうえ、王位継承もならなかったことから富里の田舎下りした時に
グスクを築き居住していた場所である。
かつて金橋は天に向って 「 私は長男でありながら、何故に王位につかさなかったのか、
天の神の采配で裁いて下さい 」 と言って、
方位十二支に向って五十三回手を合わせ供養の祈願をしたという。

また、隣接する大川グスクに居住していたのが、
尚泰久の二男の三津葉多武喜 ( みつばたぶき ) である。
兄の金橋同様に父との折り合いが悪く、この富里の地に田舎下りしたと伝えられる。


安次富・大川グスクへのアクセス
安次富・大川の両グスクへは、国道331号線を具志頭から知念方面に進み、
「 たまぐすく花野果村 」 の販売所を過ぎて、
左側の津覇整備工場の裏手になり、右が安次富グスクで、左が大川グスクになる。
駐車は、路上駐車になる。


福岡県築上町 「 堂がえり古墳群 ・ 4号墳」

2014-04-13 05:16:41 | 古墳・ 遺跡



福岡県築上町 「 堂がえり古墳群 ・ 4号墳」



































船迫・堂がえり古墳群は、周防灘の海岸線から約5キロメートル、
標高70mの丘陵斜面上に位置し、英彦山山系より周防灘に向かって伸びる
なだらかな洪積台地に東西を囲まれ、北西を京都平野の南端に接する
古墳時代後期~終末期にかけての群集墳である。


4号墳は、2号墳3号墳の南西側、標高は57mの同一丘陵上に位置する。
削平が著しく詳細は不明であるが直径8mの円墳であったと推定される。
現状墳丘裾野から墳頂までの見かけの高さは1.5m程度である。
現状を観察する限り、本古墳群の中でも規模が小さい横穴式石室古墳である。
地山整形により構築されたものと考えられるが、周溝については確認できない。

石室は花崗岩により構築されており、南西方向に開口している。
玄室・羨道からなる単室構造横穴式石室で、羨道部分の削平が著しく、
石室全長は不明である。

玄室平面プランについて長さ2.1m×幅1.6mの縦長長方形プランで、
1.5m四方のやはり正方形である。
奥壁に幅1.0m、幅0.7~0.8m程度の石材を2個据え、
その上端レベルに合わせるようにして両側壁各3個の腰石を据えている。

玄門部高さ0.7m・幅0.7mで、大人が立った状態で入室することは困難である。
このことは玄室縦長長方形プランという形態的特徴と合わせて古式の特徴であり、
ゆえに4号墳は本古墳群の中で最も古い時期の物ではないかと考えられる。