金城町 ( 旧呼称=かなぐすく、現呼称=きんじょうちょう ) の石畳を降りて
寒川 ( すしんがー ) 通りを横切ると、
伝説で有名な遺念火 ( いにんびー=人霊 ) が出たという坂がある。
そこを上って行くと左手に 「 沢岻親方 ( たくしえーかた ) の墓 」 がある。
彼は中国に渡って鳳凰橋という王の籠と竜樋 ( りゅうひ ) を持ち帰った為、
王に大変喜ばれ、その功労・功績として、この墓地を与えられたとのことである。
この墓は古い形式の面影を残している数少ないものの一つである。
昭和52年6月27日に那覇市の文化財史跡に指定されている。
古い時代の墓で玉陵 ( たまうどぅん ) と同じ頃に造られた墓である。
「 沢岻親方 」 は尚 真王代の 「 よあすたべ 」 で、
その功によって生存中に、この墓を賜ったとの事である。
この 「 よあすたべ 」 という役職名は後の 「 三司官 」 の官名で大臣のことである。
この墓は現在、残っているのは第二の入口と墓庭で、
以前は第一の入口と墓庭があったと言われている。
この墓は 「 玉陵 」 似ていると言われています。
玉陵は尚 泰久王代に建てられた板葺きの首里城に似せて造られたが、
その特徴が、よくわかるのは、屋根の部分で、
墓は石造りなのに板葺きの様に造られている。その特徴は、この墓にもある。
この板葺きの屋根は 「 園比屋武御嶽石門( すぬひゃんうたきいしもん ) 」 にも観られる。
また沢岻親方は、首里城の 「 瑞泉門 」 の龍樋を持ってきた事で知られている。
この龍樋が瑞泉門という名前の由来となったようである。
多少の修復はしたようであるが基本的には変わっていない。
「 鳳凰驕 」 も持ち帰ったとあるが、これは国王が外出の際に乗る物のようで、
路次楽<るじらく>の奏法 ( 沖縄で演奏するが沢岻親方は演奏法も伝えていた ) も
持ち帰ったとの事である。
高価な御土産を持ち込もうとしたために、怪しまれ一時、
那覇港付近に留められた事もあったようである。