「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

レーヌミノル  『 小倉2歳ステークス優勝 』

2016-09-04 15:55:47 | 競馬・ボート




































8月7日に新馬戦を応援に行った時に勝ったレーヌミノル。
その勝ちっぷりが良かったので、
「 この馬 強くなるから名前を覚えていたらいいよ 」 って、
東京から来ていた娘さんに言ったら、
なんと2戦目でアッサリと重賞を勝ってくれた。

ゴール前は抑えるくらいの余裕の勝利だったが、
見ている方はドキドキだった。
レーヌミノルおめでとう!
ホントに良かった。


父 ダイワメジャー
母 ダイワエンジェル
生年月日  /  2014年4月24日
調教師  /  本田 優 ( 栗東 )
馬主  /  吉岡 實
生産者  /  フジワラファーム
産地  /  新ひだか町
通算成績  / 2戦2勝  [ 2-0-0-0 ]
主な勝鞍  / 16'2歳新馬  ・ 小倉2歳ステークス



福岡県直方市 『 月今宵爰も東に山はあれど 』 湖白庵諸九尼

2016-09-04 03:07:58 | 文学・文化・映画作品



諸九尼が京都を懐かしんで詠んだ 「 福智山 」









直方市中央公民館にある 「 世越捨亭 見類分別や 山さくら 」 諸九尼の句碑








直方市中央公民館の句碑の横にある「 世を捨てて 見る分別や 山ざくら 」 の碑文





湖白庵諸九尼は、江戸中期に活躍した俳人で、
女性でありながら各地を行脚しながら数々の俳句を残した。

諸九尼は庄屋に嫁したが、
しばらく近くに滞在していた医師で俳人の湖白庵浮風に俳諧を習うことになる。
二人は俳諧の師弟であったのが夫や周囲から疑われ、
意を決して旅立った浮風を追いかけ、
関西に移って共に暮らすことになった。

宝暦12年 ( 1762年 ) 、約20年間一緒に暮らした浮風が亡くなり、
諸九尼は剃髪し、諸国行脚に発つ。
明和8年 ( 1771年 ) に、芭蕉の 『 奥の細道 』 の跡を懐かしく思い、東北に旅し、
著した紀行集 『 秋風の記 』 は有名である。
安政7年 ( 1778年 ) 浮風の故郷である直方に帰り、俳諧の指導に努めた。


 『 月今宵爰 ( ここ ) も東に山はあれど 』 


( 福智山に昇る ) 月が見える。ここ ( 直方 ) も東に山がある。 と、
京都の東山を懐かしんで詠んでいる。

諸九尼も見た福智山は、北九州市国定公園福智山系の主峰であり、
この山頂から観る360度の眺望の素晴らしさは北部九州随一と言われている。


湖白庵諸九尼、本名 : 有井なみ。
正徳4年 ( 1714年 ) 竹野郡唐島 ( 現・久留米市田主丸町 ) に生まれた。
寛保3年 ( 1743年 ) 浮風の後を追い京都に入り、翌年大阪に移る。
宝暦5年 ( 1755年 ) 京都に移り、住居を 「 千鳥庵 」 と称する。
宝暦12年 ( 1762年 ) 浮風の死去後、剃髪して 「 蘇天 」 を名乗る。
安永7年 ( 1778年 ) 京を去って直方に帰住する。
天明元年 ( 1781年 ) 68歳で没する。

主な著書に、紀行集 「 秋風の記 」 、俳諧撰集 「 その行脚 」 「 湖白庵集 」 、
没後刊行の 「 諸九尼句集 」 などがある。


「 世越捨亭 見類分別や 山さくら 」の句碑がある直方市中央公民館
直方市中央公民館  /  福岡県直方市津田町7−20


福岡県直方市 ・  随専寺  「 湖白庵 浮風 諸九の夫婦墓 」

2016-09-04 02:16:26 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



遺徳をしのぶ弟子たちによって建てられた 「 湖白庵比翼塚 」









比翼塚の奥にある 「 湖白庵 浮風 諸九の夫婦墓 」







墓地の入口に建つ路標







随専寺入り口に立つ 「 諸九尼の説明板 」






随専寺の山門下にある 「 諸九尼墓所 」 の碑銘





随専寺の裏手の墓地には江戸時代の俳人諸九尼・有井浮風の比翼塚がある。

浮風の本名は有井軍治義保。
直方藩士に生まれ、年少のころから俳句に親しんだ。
松尾芭蕉の高弟・志太野坡しだやばの門下に入ったが、病を得て俳諧師となった。
諸九尼は筑後竹野郡唐島 ( 現・久留米市田主丸町 ) 中原村の庄屋の妻で、
名を 「 なみ 」 といった。
俳句の師匠である浮風と出会い、やがて意気投合し駆け落ちした。
京に登った二人は精力的に俳諧活動をおこない、 多くの門下生を育てた。
諸九は、なみの俳号である。

浮風が宝暦12年 ( 1762年 ) に61歳で没すると、
諸九は剃髪して各地を行脚し、俳諧活動を行った。
安永6年 ( 1778年 ) 直方にもどり、山部に草庵を結んで浮風の菩提を弔い、
俳諧の生活を送って天明元年 ( 1781年 ) 68歳の生涯を終えた。
比翼塚は遺徳をしのぶ弟子たちによって建てられたものである。


比翼塚 ( ひよくづか ) は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、
仲の良かった夫婦を一緒に葬った塚。墓。めおと塚。
悲恋と共に伝わる例が多い。
一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭ったモノも多く、
古事記の時代から江戸時代のものまで各地に残っている。

通常の墓石の形式から、それぞれの墓を寄り添うように建てる形などがある。


福岡県直方市  ・  浄土宗 「 随専寺 」

2016-09-04 01:21:44 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣











お寺の入口にある 「 辯天堂 」





『 筑前國続風土記拾遺 』 巻之二十九に 鞍手郡 上 山部村の項に下記の記載がある。

隋専寺 本村雲心寺の南に在。
池上山白蓮院と号。 浄土宗鎮西派宮田村極楽寺に属す。
延宝元年 ( 1673年 ) 極楽寺の住僧経誉開基す。
寺内に池有。 中嶋に辨財天堂あり。

随専寺は古くは 「 瑞泉寺 」 と書き、
一帯の旧町名が 「 泉町 」 であるように、 湧水の豊富なところであった。
昭和初年までは寺の周囲は蓮池であり、
池の小島に弁天堂が浮かぶ風光明媚な一帯であった。
寺の山号 「 池上山 」 は、このことに由来する。
現在、辯天堂は寺の前に移さたものである。



所在地  /  福岡県直方市山部567