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前回のつづきです・・・
開成皇子墓から山を降りていくと勝尾寺が見えてきます。
見下ろすと勝尾寺の伽藍が広がっているのですが、ここに前身の彌勒寺があった訳ではありません!
彌勒寺があったのは今の奥の院なのです。
奥の院へは本堂から先に進んでいくとある閻魔堂の右手に伸びている石段を登っていきます。
ちなみに閻魔堂の左手に伸びている道は自然研究路なので先に行くと出発点の箕面ビジターセンターに戻れます。
↑閻魔堂
参拝客の多くはこの閻魔堂周辺が奥の院だと思ってここまでしか参拝していかないようです・・・そういう私もここから先に行くのは初めてです。
石段を登って行くと古いお墓が立ち並んでいるのですがその先に・・・
丈六の弥勒菩薩坐像がありました!
いやぁ~びっくりしました!
勝尾寺にこんな仏像があるとは知りませんでした!
どこかの成金が寄付でもしたのかと思うような仏像ですが、なんと!この仏像は江戸時代に鋳造されたものなのだそうです。
よくまぁ~戦時中の供出を逃れたもんです・・・
この仏像の横に文殊堂、文殊堂の奥に納骨堂
↑文殊堂
開成皇子が彫った文殊菩薩が納められていたそうです。
現在は定かではありません・・・
↑納骨堂
(ここに来ても何の案内もないので戸惑うのですが、お堂の名前などは摂津名所図会から判断しました。)
この五輪塔↑は熊谷直実の供養塔と言われています。
なぜこんな所で熊谷直実?と言うと、源平の合戦で焼けてしまった勝尾寺を熊谷直実が再建したのだそうです。
そしてここからさらに上にひとつの小さなお堂・・・お堂というよりは祠にしか見えませんけど・・・
六角のお堂で中には謎の切り株が収められています・・・この切り株は何だろう?
兎に角、この場所を般若台と言い、お堂はそのまま六角堂と呼ばれています。
その昔、開成皇子は写経した大般若経をこの般若台に埋経し、六角堂を造り、道場を建てて彌勒寺と名づけたとされていて、そのままの状況がここに残されているのです。
これだけ開成皇子にまつわる話があって、それに対する場所もあるのだから史実だと思うんですけどね・・・ちょっと出来すぎなような気もしますが・・・
それにしてもこれだけ面白い場所や仏像があるにもかかわらず、CMまで作っていた勝尾寺がこれらのものを宣伝しないどころか、案内板も作らないのは何でだろう?
そっちの方が謎でした・・・
コメントするたび、ひさしぶりになります。。。
(・・・私がコメントできる名所がないもので。。。)
勝尾寺は2年前に行きました。
そのときは‘ちゃんと’奥の院まで行くつもりにしていたのですが、閻魔堂横の石段に鎖が掛けてあって登ることができませんでした。
ちなみに、今回、pearlsellerさんは勝尾寺の山門のほうからではなく、閻魔堂の前に出る道から訪れたのでしょうか。
その場合、勝尾寺の山門横のゲートを通らずにたどり着くわけですよね?
私は勝尾寺にもう一度、今度は奥の院の見学と二階堂の朱印をもらいに行きたいのですが、電車とバスの乗り継ぎでは非常に不便で、また、入山料が要るのがネックで行き損ねています。
ハイキングがてら、横手(・・・箕面のほう)から回って行ってみようかと思うのですが。。。
返事が遅くなってすみません!
さすがに奥の院の事をご存知でしたか!
あの石段の柵はイノシシもしくはシカ除けなので人間サマは手で開けて入るのが基本ですよww
今回は開成皇子墓から降りて行ったので二階堂の横辺りに出ました。自然研究路から行くと閻魔堂横に出ることが出来ます。どちらも柵があるので手で開けて入ってから元に戻しておくことになります。
大きな声では言えませんがゲートを通ることはありません・・・
そうです、鎖に「イノシシが出るので通行禁止」と書いてある札が下がっていました。
それで正直に従った(諦めた)のですが・・・。
「大きな声では言えない」部分を知りたかったのです。(・・・ふふふっ、ゲートを通らずに寺に入れるんですね。(笑))
でも、これだとものすごく歩くことになる(らしい)ので、それを考えると、やっぱりよほど気が向いたときにしか行く気になりませんね。。。