今日は朝から10月なのにナニコレ、と思うような蒸し暑い一日でした。
さて今回は、老人施設でお世話になっている私の母が「満百歳」のお祝いをしていただけるというので、奈良県内の施設へお祝いを兼ねて行ってきました。
調べたらお祝いごとは数え歳(101歳)で祝うようで「仙寿」と呼ぶそうで、101歳を超えたら毎年お祝いするという習わしのようです。現在母はといえば、年々認知がひどくなってるようで、私たち自分の子供のことも誰か分からず状態です。
食べることは自分でなんとかもって食べて、柔らかいものばかりですが毎食残さずに完食しているそうで、内蔵が達者な方なんです。
今日も本人もそうですが、周りの入所の人達も何かいつもと違ってるな~という顔で母に付けてくださった大きな「祝い鯛」をほぐしてもらって昼食を黙々と採ってました。
母は、そう丁度「阪神大震災」が起きた日の数日後「意識不明」になって、当時、私は兄の言葉に覚悟して、小学校に息子たちを早弾きさせて慌てて実家に帰ったことがあるんですが、私たちが病室へ着いた時は意識が戻ってて、「一安心」したという経緯をへての100歳なのです。当時意識が戻った時、本人曰く「花が咲いてるのが見えた」そうです。あの川の手前まで行ったんでしょうね~
亡父が8人兄妹の長兄だったことや、昔にしては遅い結婚の上、姑、小姑5人もいたからすごく苦労をしてきたはずなので、何時も訪ねる度にもっと幸せになってもいいのになって思ってしまうんですが、逆にこの母だから昔は気丈に過ごせてきたのだと、今は食事も美味しくいただけてるのだから、これで幸せなんだと思うようになりました。そして、100歳の誕生日(10月5日)を迎えられたのですから。
「葛城市」にある施設なので、其方の市長さんに花束と、記念品をいただいても、何がなんだかわかっていない母なんですが、入居の方たちに拍手をいただいて退場です。右の写真は市長さんがお見えになるまでの待ち時間に母を囲んで撮って頂いた写真です。一回り近く離れた私の兄夫妻と、愛知県から合流した姉夫妻に挟まれてるのが私です。
「葛城市」の広報に載せたいとおっしゃって、役所の方が少し母の人となりを聞かれたので、「私達娘の嫁入り支度の和服すべてや、兄の和服もみんな縫ってくれました。まだ認知が軽かった頃は毎年こちらでも書き初めをして賞をもらったりしてたようです。枕元には書き初めが毎回貼ってありました」とか「長寿の秘訣は?」と聞かれて「昔はよく縮緬雑魚を買って食べてましたよ。魚が好きだったかな。農家なのであとは野菜ですよね」とインタビューに答えました。
このあと市長さんとの集合写真を撮っていただいて、母としばらく一緒の時間を過ごしました。少し普段と様子が違ったせいか、多少緊張してたのか、兄に肩をもんでもらいながら、お義姉さんが少し話しかけるとニコニコしだして「今日は何でこんな?」という、辛うじて判断できそうな言葉を喋ったので「百歳だからよ」と何度もいっても、どう話してもわからないし、食事の後で眠くなったようなので、部屋に連れて行ってもらって私たちは遅い昼食を摂りに施設を後にしました。
実家の近くで兄が席をとってくれていたので「松花堂弁当」を頂きながら、兄の退職の時期の話や、税の話等で久々兄妹が憩いました。
国から、県から、市からの祝状、記念品をいただきましたが、本人は解っていません。此方で8月に100歳のお祝いをされた方のようにもう少しでいいから、判断が出来ていたらよかったのにな~~って痛切に感じました。
私も同じ生きさせてもらえるなら、健康が一番だなと改めて思った次第です。