Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

フラッシュバックと残照

2007-09-06 | 
ホテルの近くの一枚岩を五時間ほど攀じる。天気も良く、気持ちの良い運動である。何よりもその黒っぽい花崗岩には覚えがある。

小さくも角張った手掛かりに指をあてがい、ラバーソールを岩に押し付けて、体重をぐいと重力に逆らって持ち上げる。暖かな陽光を浴びて、フラッシュ・バックを感じた。不特定のあの日に戻っているのである。少なくとも30年以上前のあの日である。

ここで重要なのは、この感覚はデジャブとは全く異なるもので、現実感が満ちていることである。この反応には些か驚いてしまったが、そこまでの連日の肉体の使い方や代謝にも関連しているようである。

兎に角、あの日を運動しているのである。敢えて言えば、幾らか体の軽さのようなものを思い出したのかもしれない。とても懐かしい感覚であった。

一汗かいてから、村のカフェーに座り込みエスプレッソを飲んで気を取り直す。シャワーを浴びてから夕食前のアペリティフを飲みに降りていくと、同行の氏が「ルチアーノ・パバロッティーがどうかしたらしい」と言う。「死亡したのでしょう。死の床にいましたから。そうですか」と物思う。

「CDなどは、高くなるのか、それともコンプレーションが出て廉くなるのか?」と聞かれたので、「一年以内に安売りが出るでしょうね」と答える。

鶏のフリカッセの前に、ゴルゴンゾーラソースのニュッキを食した。これまた、そこから距離的に遠くないテッシン出身の女性が好んで取ったであろうプリモである。

その晩は、食後にビールを飲んで気持ち良く床についた。そして、何の理由も無く、特に知己の無い作曲家で教育者の故柴田南雄の講演会とその後の面談の夢を見た。氏の書物は理論書が手元にあり、また嘗て取り寄せた遺作の書「わが音楽、わが人生」を旅行前に覗いたからかもしれない。

こうして考えると、約十年の間隔を置いた記憶が過去の残照として次々と20時間以内に現れてきた一日であった。
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